回り道

 翌日は朝7時出発でウイーンに向かった。
 途中、高速道で事故があり、大渋滞。車の中にまだ人のいる事故現場をやっと抜けたら、全線閉鎖とのことで田舎道にだされてしまった。怪我人は運んだのだろうが、実にのんびりとした事故処理であり驚いた。高速道路上のスピードは、これもすごい。車は日本車も多く、それもサニー、カローラ、フイットクラスのスモールカーなのに、ジェット戦闘機の離陸みたいなスピードを出していた。
 一般道に出てしばらく行くと、コンビニのような店が見つかった。ガイドはここで、昼食がわりになるものを買ってくれ、何時に到着出来るか解らぬしチェコの補助硬貨は両替も利かないので使用したほうが良いでしょうと話した。寒村のコンビニ店員は突然の買い物客の殺到に、大喜びの体であった。サンドイッチやホットドッグ、パン類は完全に売り切れ状態。近隣の人々の昼食はどうなるか、心配でもあった。

魔女居るや異国の枯れし並木道  さて、この回り道のお陰でバスからではあるが、東欧の田舎風景を満喫できたのは、願ってもない幸いであった。  大きくても4、50軒の村落を過ぎれば地平線の彼方まで畑が続く、この村々を結ぶ1本の道の片側には大きな林檎樹の並木が続いていた。
 冬の曇天に見るそれは、村の1本だけそびえ立つ教会の塔と相まって、魔女伝説を身近な物として納得させてくれた。  また、村の家々は大量の薪木を積んで冬支度。ある家の人は斧を振り上げ、小さくしていた。日本ではほとんど見られぬ光景であるが、私には我々の暖房よりもはるかに贅沢な暖かさを感じさせた。

薪や薪東欧農家の冬支度 光晴  国境では、相変わらずの長い車の行列であったが、今回は観光ツアーのバスは比較的簡単な出入国手続きで通過する事が出来た。それでも、ウイーンの主要スポットをバスで廻り、ホテル入りしたのは6時過ぎとなっていた。
今晩の食事はウイーンの居酒屋と言われる、庶民的なレストラン、バイスルを試すこととした。 一応バスで方向感覚はある程度理解したつもりであったが、夜でもありさらに奥まった所にあったため一度はアベックさんのお世話になった。
日本ではニュー東京みたいにビール会社の直営だそうだが、量も味も満点であった。料理の名はクネーデル・ズッペ。ズッペとはスープのことで、小麦粉の団子の入った肉スープであり、ウイーンの伝統料理の一つである。レストランの名前はゲッサー・ビアクリニック。病院みたいな名前だが、ビールは健康飲料との主張だそうである。私は通風で、毎日薬を朝晩飲んでいるのであるが、通風に悪いビールがいくら飲んでも痛くならなかったのも不思議であった。

映画「第三の男」の並木

 翌日は終日自由行動であったので、ホテルのそばのたばこ屋で1日乗車券を求め、市電で繁華街に向かった。この市電は旧市街を囲むようにして、リンクと言われる道路を走っている。旧市街は山手線の内側よりははるかに小さい。しかし通りの名がみなよく似ているので、ウイーンでも乗り越してしまった。しかし一日乗車券のお陰で安心して引き返せるのがうれしい。

マントの娘俄写真師集めをり 光晴

 国立オペラ座の前で降り、ケルントナー通りをぶらつく。この通りは銀座よりも新宿に近い。歩行者天国でもある。おもちゃ屋の前にロバが引くおもちゃ箱満載の馬車がおり、ちょうどそこに赤いマントの可愛い女の子が通り掛かった。彩りも良くいっせいにカメラの放列を浴びスター誕生と相成った。後で現われたお母さんは、白人の塾女そのもの、良く太っており、女の子の行く末を案じたくなった。
 我々一行は昼食変りに世界的に有名と言うザッハートルテとウインナーコーヒーを取ることにした。しかし、一番有名なホテル・ザッハーは満員とのことで、日本の不二家によく似たチェーン店でお茶を濁すこととした。日本と違いヨーロッパのケーキはとにかく甘いのだが、ウインナーコーヒーとともに左党である我々も美味しく食べた。
 街の中心に位置するのがシュテファン寺院である。これまた壮大な寺院であり、内部も見事な調度品が揃っていた。外では、救世軍の軍楽隊と思われる楽団が演奏をし、寄付を募っていた。正面に豚カツやのシェフみたいなのが立っていたが何をしていたのか解らなかった。

往年の名画のままに枯木立 光晴  ここから歩いて、ドナウ運河を渡り、映画「第三の男」で有名になった、プラター公園の大観覧車に向かった。
 観覧車から見るとウイーンはやはり大都会であり、旧市街以外には、工場や近代的な建物も散見され、大分チェコのプラハとは赴きを異にしている。それとウイーンの森などほとんど無いことに気づく。
 ウイーンとはケルト語で森の小川の意味だそうだが、16世紀のハプスブルク家までの話かもしれない。ウイーンはまた音楽の都とも言われるが、これはハプスブルク帝国が多民族国家であり、人心を一つにする上で音楽が欠かせぬコミニュケーション・ツールだったことに由来するそうだ。それにしても、帝国が崩壊し多くの人々が自国に引き上げたため、ウイーンの人口が激減。このため、世界の大都市のような過密な都市にならないで、情緒ある都市として今があるのは皮肉なものである。
 それでも、この公園は、ハプスブルク家の狩猟場の後だそうで、奥の中央墓地に繋がる(たしか映画上は)栗の木の並木道始め広大であった。

高いホットワイン

 ウイーン北駅から地下鉄U1に乗り、カールスプラッツでU4に乗り換えシェーンブルン宮殿に向かった。地下鉄のエスカレーターの速さは驚くほどだ。だがお年寄りも平気で乗っているのだから慣れれば良いのかも知れない。そんなに転ぶ人も見ないので、日本でも採用したらとも思うがどうだろう。最後に30度くらいの足止めがついており、これに足を移すと不思議とよろけないで降りられる。大江戸線など深い地下鉄は採用すべきと考えた。

夕日に燃えるシェーンブルン宮殿  さて、シェーンブルン宮殿であるが、前日バスで正面のライトアップとバザール(露店)は見学していた。その時のことだが、露店のホットワインが名物だとガイドに聞いたので、早速飲んでみた。ただの甘いグレープ・ジュースと何ら変わらない。そこらに空け捨てることも出来ないので、やっと飲み終えカップを返そうとしたら、店の兄さんがお変わりの注文と間違えてまた入れようとする。びっくりしてノーノーと叫び、カップの捨て場を聞くのだが、拙い英語の上相手はドイツ語しか言わないので大弱り。ゼスチャーで何とか理解してもらったが、今度はサンキュウーを連発し始めた。後でガイドに話したら、カップはお土産なのだそうである。どうりで高いッジュースだと思ったと、大笑いになった。
 この日は宮殿の中と広大な内庭園を見ることにした。マリー・アントワネットの母デアル、マリア・テレジアに最も愛された宮殿とのことであるが、部屋数実に1441室あるそうだ。携帯電話みたいな日本語の解説器もあり無料で貸してくれる。庭園がまたすごい。広すぎてとても奥まで行く気にもなれぬ広さであった。また、宮殿前の広場ではウイーン少年合唱団の如き少年が演奏をしていた。


スリに

シェーンブルン宮殿の中庭 相変わらずの人ごみで、この時今回の旅行における最大の失敗、スリにまんまと電子辞書を取られてしまった。

肩掛けの布バッグのポケットに入れていたのだが、後で友人が写したビデオを見れば、明らかに財布が入っているように見える。おそらくそこら中で狙われていたのだろう。幸いなことに、旅行保険で代替品が買え、ほっとした昨今ではあるが。
 宮殿見学を終へ、またカールスプラッツに戻り、オペラ座の前を通り、美術史博物館に立ち寄る。この美術館はハプスブルク家の歴代コレクションが豊富であり、私のような美術の門外漢でも本などで一見したことのある絵画が沢山あって楽しめた。
 夕色迫る頃となり腹も空いてきたので、ウイーン子に人気があると言うレストランで夕食を取ることにした。ウインナー・シュニッツェルというウイーンの地元料理を味わうことにした。薄切りの子牛の肉をさらに叩いて薄く延ばしたカツレツであるが、量もあり味も大変美味しいものであった。もっとも友人は紙豚カツなどと言っていたが。
 市電に乗り、市庁舎のすばらしいクリスマス・ツリーの電飾を堪能しつつホテルに戻った。部屋で同行のツアーで宮崎から参加されたご婦人に頂戴した焼酎を飲み、歓談しつつ床に就いた。
次へ