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福井の3

 二日目は福井市内と俳人協会創立45周年記念北陸大会に出席、栗田主宰の記念講演を聴いた。
 当日2句の投句が行われていたので、永平寺吟行句を投句した。
 これは、7月13日に手紙が来て判ったことであるが、うれしいことに、私の一句「法堂へ僧の 羅ひるがへる」が二人の選者に佳作入選していた。
 選者は金沢経王寺の庵主で第15回俳人協会賞や泉鏡花市民文芸賞受賞者の中山純子先生と「俳句 結社七曜」主宰の橋本美代子先生であった。
この旅の良い思い出となった。

左内公園

 左内公園は駅から海側に繁華街を抜け、足羽川を渡った閑静な住宅街にある。
 銅像の橋本左内は、安政の大獄で刑死した幕末の志士の一人。ここに墓があり、雪の下が沢山 咲いていた。
 また、芭蕉が奥の細道の途中で立ち寄った、洞哉宅の跡でもあるそうで碑が残っていた。
 「名月の見所問ん旅寝せむ」の句碑が一つあるだけで、写真にもならない場所だ。もう少し芭蕉宿泊地として紹介するなら、形を 付けて欲しく思った。



   鉄扉鎖す左内の墓に鴫足草

   蕉翁の足跡訪はむ月見草    

北の庄城址公園

 中心街に戻って、北陸本線のガードの手前、ビルに囲まれた一画に北の庄城址公園と柴田神社、三 姉妹神社などがある。
 城址は特殊な造りの様だが、石垣が少し残っているだけ、この堀割の上に木道を作ってあり、これより、 柴田勝家やお市の像を見たり、柴田神社や三姉妹神社を見ることが出来る。三姉妹とは、 長女茶々(豊臣秀吉の側室淀殿)、二女初(京極高次室)、三女小督(徳川秀忠室)の姫たちである。
 戦国時代の悲劇の女性博覧会みたいな場所であるが、古を語る物は、堀割の石垣だけであった。
 右手前が三姉妹神社で奥が柴田神社である。

   ビル群に埋もるる像の溽暑かな

福井城祉

 福井城の初代城主は、結城秀康である。家康の次男に生まれ、秀吉の養子(人質)となり、秀吉に 実子が生まれると、結城氏に出された。秀康は父子の関係をどんな風に感じていたのだろうか? 天守跡には、父子草がいっぱい生えていた。
 城址は現在、福井県庁、福井市庁などのある、官庁街となっている。
 残っているのは、内堀と天守跡の石積み。この石積みも一部、大戦後の福井大地震で崩れたあとが そのまま残されている。
 変わった物では福井の地名ともなった、福の井戸があった。深い井戸で、ずいぶんと奥の方まで、 実生の楓が青々とした葉を付けていた。


   父子草福井城址の石垣に

   蔦纏ふ老松涼し天守跡

   あかとんぼ地震に崩れし城の垣    



   水馬僅かに除けし雲の影

   福の井の暗き深みに青楓       




 写真に見える井戸の中の葉はシダ類であるが、楓はもっと下にあった。
 駅前の割烹で夕食後句会。今回参加の方々はほとんど同人なので、さすがに上手い。感心しすぎて 眼鏡を壊してしまった。
 形代流しを吟行する予定であったが、眼鏡が壊れてはどうもならない。皆と別れて眼鏡屋探しと 相成ってしまった。
 8時半頃であったので、駅前でもあるし何とかなるだろうと思ったのは間違い。地方都市は駅前でも 8時には店は閉めてしまっていた。駅前の眼鏡屋は2軒とも電気は消え、人の気配もない。
 ホテルに戻ってフロントに泣きついた。郊外店ならやっているかもと、電話してくれたが、応答せず。
 フロントマンがあと一軒だけ、この道の奥の方に大きな眼鏡屋があった、だけど店はやって いないかもしれません。名前も判らないので、行くしかないと言う。
 真っ暗な道で、眼鏡がないから大変怖い。やっと店を見つけたがすでに閉まっている。こちらも 必死で、裏口に回ると呼び鈴があった。
 やっと直してもらえることになり、地獄に仏であった。提示の修理費の倍をお礼として受けて 貰い、ホテルに戻った。
 眼鏡屋でも言われたが、教訓、「眼鏡は必ず予備を持って出よ」である。

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