子規庵と鴎外荘

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根岸にある子規庵の入口
東京根岸にある子規庵の入口 

子規庵

 子規庵は山手線鶯谷駅北口から5,6分の閑静な住宅街にある。
足細き子規の小机冬ざるる (2003,11)伊吹嶺2月号伊吹集収載句  と言いたいところだが、子規庵のある筋に入る道の手前まで、所謂ラブホテルが軒を連ねている。
しかし、昼間のこと、着いてしまえば静かである。この日も少々時雨れていたが、俳句仲間らしき 数組のグループや、子規を卒論にでも選んだのか、女学生と見られる面々などで狭い玄関は一杯であった。  正岡子規(1867〜1902)を全く知らない日本人はいないと思うが、面白い小説を書いた わけでも大衆を喜ばすことをしたわけでもないのに不思議に思っていた。
 子規の功績は、すべてものを書くのは文語体という風潮を改めさせたことであるような気がする。
 勿論、それ以前より、言文一致運動はあり、坪内逍遙や二葉亭四迷などを始め多くの人々の関わった成果 であり、時代背景もあったとは思うが、子規の写生文や彼を中心に集まっていた漱石や鴎外などの文人 への影響は大きかったのではなかろうか。
弱日(もろひ)うけ干からぶ糸瓜(へちま)子規の庵(いお)(2003,11)  小中学生の頃子規をどのように習ったのか忘れてしまったが、多分こんなことを教わったのだと 思う。この辺が子規を万人に有名にしているのだろう。
 さらに子規については大学の頃と思うが、ベースボールを広めた明治人としての側面を知った。 ベースボールを野球と翻訳、さらに自分の本名のぼる(升)=野ボール(野球)としゃれていたこと などであった。
 そして3年前に初めて俳句をやり始めて、恥ずかしながら、子規が現代俳句の祖であることや、短歌においても 「歌よみに与ふる書」で革新を招いたことなどを知った。
 また、エピソードとして、俳句の要諦は写生であると最初に言ったのは、柳原極堂が松山に来たとき、 散策に誘った際の言葉だったとか、夏目漱石の「坊っちゃん」の山嵐のモデルが子規であり、 夏目漱石の漱石という号も子規から譲り受けたものだったとかを知ったのも最近である。
子規庵の狭き縁側時雨来る (2003,11)伊吹嶺2月号伊吹集収載句  さて子規庵であるが、子規庵は我々俳句を囓る人間にとってはメッカ(聖地)だったのである。そんなことも知らずに 良くも3年も平気で句を作っていたものだとあきれている。これでは句も上手くなれる訳がないと感じた。
 子規が松山から上京後この根岸に住み、最後まで住んだところがこの地であった。東京大空襲で 焼失したが、鼠骨等が昭和25年に再建したものだそうである。東京都の文化史蹟にも指定され 現在に至っている。
また、子規庵の斜向かいには、鴎外、漱石等とともに親交のあった書家の中村不折の記念館もある。
 さらにその裏手には、林家三平の資料館「三平堂」がある。また、鶯谷駅の上野方面側に降りれば 「恐れ入谷の鬼子母神」がある。今回はこれらの各所には訪問していないが、興味惹かれるところ である。このように、根岸界隈は一日中歩いても楽しいところである。
 昼食を豆富(豆腐)料理で有名な「笹之雪」で取り、家族へのお土産の「羽二重団子」を買うため 日暮里方面に向かった。
 「笹之雪」も「羽二重団子」も漱石等の小説にも出てくる老舗であり、私は味も確かな処と思っている。


 上左の写真は「羽二重団子」の店の角でこの辺を芋坂と言う。昔、山芋を運んだのが由来だそうだ。 王子街道の道標があった。
 上右の写真はその向かいにある、善性寺の大きな大黒さんである。大きな小判を持っていた。
 また、このお寺には昭和の名横綱双葉山の墓があるとのことだったが、判らなかった。
 この後、子規と親交のあった鴎外の旧居を見学すべく、日暮里からJRに乗り上野に出た。山では黄落の中、西郷さんが寒そうに下界を見下ろしていた。 不忍の池もだいぶ水鳥が増えてきていた。

鴎外荘

 森鴎外(1862〜1922)も子規と同時代の文士であり、親交のあった人である。鴎外は 津和野に生まれ、明治5年に上京し、現東大の医学部に通っていた。
鴎外を偲ぶ旧居や柘榴爆ず (2003,11)ドイツ留学から戻り、結婚そして 翌年に「舞姫」で文壇デビューしたのであるが、その当時子規庵のある根岸から引っ越して住んでいたところ がこの鴎外荘だそうだ。
 鴎外荘は上野動物園の裏手、水上動物園の奥にある。ここは水月ホテルによって管理されており、 ホテルの中庭にあたる。写真にある入口から玄関、中には単なる見学者は入れそうになかったが、 舞姫の間、豪勢な庭園などは入って見学できる。この時期この門の右手に赤い柘榴の実が付いていたのが 印象的であった。ホテルの関連施設となっているためか、資料館などもなく、少し寂しい気がした。
 明治の時代、根岸界隈は毎夜文士で溢れかえっていただろう。子規庵の栞によれば、子規の 家に集っていた面々は、漱石、鴎外、不折を始め浅井忠、高浜虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪、香取秀真、 丘麓、伊藤左千夫、長塚節、与謝野鉄幹、島崎藤村、会津八一等とある。
綿蟲や忙しなくする宮参り (2003,11)
 薄暗くなった上野の山を降りてくると、清水観音堂近くで綿蟲が舞っていた。
 五,六才の子供の頃、綿蟲を追って遊んだ記憶はあるが最近はお目に掛かったことがなかった。 どんよりとした寒い師走によく似合う虫である。
 忙しなくお宮参りをする人々にすれ違いつつ、私は上野広小路のネオン街へと、吸い込まれていった。 

吟行日2003,11,20





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