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岡崎(家康の生誕地)



冬温し徳川先祖の墓八基


 三河は徳川の街である。目につくもの何でも徳川に関係している。
 今の時代にありながら、徳川なくては過ごせない街のようだ。そして徳川の名が出ると、嬉しそうに笑顔で故事来歴 を教えてくれる人が多い。
 そんな街の中心、岡崎を訪れたのは、前日、岡崎の隣町とも言うべき知立で新年俳句大会があり、これに出席して 一泊、名古屋地区の同好の士の案内を得たからである。
岡崎城梅一二輪もかほりたる (2004,01)  それほどに時間があるわけでもなかったのでタクシーを使っての吟行となった。
 写真の順番とは異なるが、まずは八柱神社に向かった。

八柱神社

大寒の空に飛行機雲光る (2004,01)  八柱神社は8柱の神様が祀られていることから付いた名前のようである。
 ちょうど社殿に着いた時、真っ青な空に、小牧あたりから離陸したのであろうか、上昇を続ける飛行機がジェットの 噴射痕を残して綺麗であった。
 この神社には、織田信長に武田氏への内通の嫌疑を掛けられ殺害された、家康の正妻、築山御前の首塚がある。
 神社の横手の木々に囲まれた一画に今でもひっそりとあった。当時はもっと整備もされていないところであったろう。
 尾長であろうか、鵯であろうか、歯ぎしりのような鳴き方は築山御前の無念の声にも感じられた。
寒禽や築山御前の塚に影 (2004,01)


若宮八幡宮

堂守る如く老爺の日向ぼこ (2004,01)  この神社もうら寂しい神社であった。一つは境内に大きな木がほとんどないためだろう。
 さらには、ここが家康の長男で築山御前と同様、信長に武田氏内通の嫌疑を掛けられ自刃した、信康の首塚がある 為だと思う。
 当時の信長と家康の力関係を考えれば、首を貰い受けて埋めるだけでも大変であったろうが、小さな石塚であった。

  冴返る信康公の塚小さし

 右の写真の社殿の右奥に柵に囲まれてあった。この写真をクリックして見て貰いたい。
 社殿の左に老人が一人うたた寝をしていた。いかにもこの社ののどかな守人のように見えた。


大樹寺

総門を仰ぎて傾ぐ冬帽子 (2004,01)  大樹寺は徳川の前身、松平家の菩提寺である。このページのトップ写真は一番左が家康であり、右に7代の祖先の墓 が並んでいる。家康の墓は近年建てられたもので、お骨等が埋葬されているものではないようだ。徳川家の始祖では あるが、家康はこの墓前で自刃する可能性のあった場所であり、墓があっても可笑しくないと近年建てられたようだ。
 今回は訪問出来なかったが、この地にも滝山東照宮なる、お宮があり、日光、清水とならんで日本三東照宮と言われて いるようであり、お骨はこの三宮に分骨されているのだと思う。
 家康は19才の時、今川義元の人質として今川方にいたが、桶狭間の合戦で負け、この大樹寺に逃れ、先祖の墓前で 自刃しようとした。このとき、住職の一三世登誉上人に「厭離穢土 欣求浄土」と諭されたそうである。
 「厭離穢土 欣求浄土」とは、苦悩の多い穢れたこの世を厭い、離れたいと願い、心から欣んで平和な極楽浄土を こいねがう、と言う意味だそうだ。私などには、早く汚い世を捨ててあの世の極楽に行きなさい、とも聞こえるが、 家康は違った。
 この世に極楽浄土を実現すべく、武士の頭領として生きる道を選び、この「厭離穢土 欣求浄土」を御旗として 戦国の世を生き抜く決心をしたのだ。そして、この教えが三百年の平和な徳川時代を築く基となった。
 写真の総門の内側から門外を眺めると、その正面に岡崎城が望める。三代将軍の家光が造ったとのことだ。また、 1535年に松平清康が造った木造の多宝塔が現存している。
 一葉目の写真は岡崎城の天守閣である。岡崎城の期限は15世紀前半までさかのぼる。現在の天守閣は昭和34年 (1959年)に復元されたものである。
 頂上からは、三河平野が一望される。松平氏の時代も肥沃な住みやすい地であったことがうかがわれた。周りは城址 公園となっており、梅がわずかにほころび始めていた。

カクキュー

二夏を越したる匂ひ寒の味噌 (2004,01)  三河の名物、八丁味噌の工場を見学した。
 八丁味噌は食べ慣れない人はこの香りに馴染めなく敬遠する人もいる。私は味噌汁大好き人間であり、特に八丁味噌 系の赤だしは毎日でも飽きない。
 今回の見学で、八丁味噌が出来上がるまで約3年もかかり、現在でもほとんど製法に変化がないことや、 今では醸造に使用する大樽を作れる人や木がなくなってしまって、古い物を遣り繰りして大事にしていること。 それでも10年後ぐらいには無くなってしまうので、新素材の研究も行われていることなどを知り大変興味深かった。
 この写真は、八丁味噌を現在製造している二つの会社の一つで、今回見学した合資会社カクキューに展示されている 蝋人形である。現在ではこれらの人的労働力はだいぶ機械化されている。
 しかし、製法そのものはほとんど変化していなく、味噌蔵に並ぶ大樽の上には人手によって、手頃な大石が重石として 積み上げられていた。その古めかしい蔵にフォークリフトが入ってきて、熟成完了した大樽を軽々と運び出していた。
 伝統技法とハイテクが見事に融和した瞬間を見たきがした。
 お土産の八丁味噌を買い、帰途に着いた。新幹線ではビールを飲みつつおぼろに徳川の代の功罪を考えているうちに 新横浜に到着した。

   味噌蔵の石積む樽や寒の入 (2004,01)

岡崎(家康の生誕地) 了


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