縺れつつ高舞ふ蝶や天狗風 (2001,04)
 太魯閣峡谷の帰りは、ガイドの日本軍歌中心に超懐かしのメロディー独演会を楽しみながら、花蓮まで戻ってきた。
 驚いたことに、昼食を取った食堂も、朝の大理石工場も、この後の土産物屋もすべて、老ガイドが経営する一連の企業であった。
花蓮のライオンズの会長でもあり、地方の重要人物であるらしい。
 土産物屋は、翡翠と猫目石などの宝石類と大理石細工が中心で、店で10万円以上の宝石は東京に行けば すべて3倍以上で売っていると言っていた。私は、翡翠玉と言ってはいたが翡翠を取った後の屑石を磨いて作った玉の腕輪を買ってきた。これは、その ガイドが着けていたもので、体調を良くする効果があるという。中国4000年の歴史の中で王侯貴族がなぜ翡翠を良く身に 着けていたか、今でも中国人が身につける宝石としては、翡翠を殊の外珍重するのは何故か。それは、翡翠が体に良い影響を 与えることが昔から実証されているからだそうだ。
 私はビールの飲み過ぎで、通風の持病があるので、この歴史と習慣の重みを信じて買うことにした。
 実はその時すでに痛みだしており、その晩も美味しい北京料理を食べることになっており信ずる以外に道はなかったのかも知れない。
 ところが、うれしいことに本当に効いたのである。(もちろん、翌日の朝になっての実感であるが。)
 この後、阿美文化村により、当地の少数民族である、アミ族の踊りのショーを見学、最後には舞台に上げられて一緒に踊りまでしてしまった。 北海道のアイヌコタンのショーに似ているが、楽器や踊りはアミ族の方が楽しいと感じた。
 プロペラ機に乗ってからスコールが来たが、雲の中を飛ぶので、この空路の事故で亡くなった作家の向田邦子氏のことなど思い出され、いささか 怖かった。
 松山空港からはタクシーでホテルまで帰ってきたが、途中、ちょうど退社時刻とぶつかったからか、自転車、単車の多さにはびっくりした。
 夜食は我々が勤務していた会社の関係取引会社からの差し入れなどもあり、豪勢に飲み、かつ食い満腹のうちに眠りについた。

故宮博物院



 翌朝目を覚ますと、あんなに飲み食いしたのに通風の発作はなく快調であった。負けさせて五千円の腕輪であったが、これは買い得であった。
 故宮博物院は、パリのルーブル、ニューヨークのメトロポリタン、ロンドンの大英博物館と並び、世界四大博物・美術館と言われるそうである。  世界第二次大戦、国共内戦などを良くかいくぐり残ってくれたものである。青銅器、陶磁器、書画、彫刻など約65万点が収蔵されているそうだ。 常時6000〜6500点が展示されているとのことで、全部見るには十数年の歳月が必要だそうだ。
歴史訪ふ故宮院いま柳絮とぶ(2001,04)  我々に残された時間はあと数時間である。本当を言うと、すばらしいとため息をつく暇もないぐらい忙しく見てきた感じである。それでも 教科書やいろいろな書物で見た現物を目の前にすることは大変うれしいことであった。
 館内での撮影は当然禁止であったので館内では必要がなかったが、購入したてのデジカメであり、バッテリーの持ち具合もまだ解らずで、 昨日の太魯閣峡谷以後の写真が撮れないのが大失敗であった。
 この建物に入る手前に大変美しい中国庭園があった。至善園(チーシアンユアン)と言う庭である。 あまりにきれいであったので、画像を小さくして撮れば一枚ぐらいは可能かもと試したのが右の写真で、あとはぜんぜん撮れなかった。 良い俳句も授かり記念の一枚となった。
 このたび、この紀行文を書いていて感じたのは、おそらくDNAも近い人のいる土地はやはり安らげることである。韓国訪問時にも感じたが日本人は もっともっと近い国を大事にし、また行き来を活発にせねばならないと思う。来年はぜひとも中国本土に旅してみたいと思う。また、 北朝鮮の問題も何とか早く解決してお互いが忌憚なく 話し合える、そして行き来できる国になって欲しいと思うのである。

台湾紀行 完


徘徊紀行へ戻る

トップページへ戻る