深川散策と清澄庭園

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紅葉と清澄庭園
紅葉と清澄庭園 

深川不動尊

 12月の半ば、2年半ぶりに清澄庭園を訪れた。この前訪れたのは5月であり、大変爽やかな初夏であった が今回は師走、それでも好天に恵まれ暑い位の日であった。
 深川=庶民の江戸、のような響きを感ずるのであるが、現在の深川は1丁目2丁目に名前を 残すのみで、大変狭い。従って史蹟も新町名下にあるものがほとんどである。
人波や香煙潜り札納  今回の深川散策は、門前仲町から始めることとした。  ちょうど深川不動の縁日に当たっており、歳末をも控えた参道は午前中にもかかわらず、すでに 屋台も出揃い、下町の門前らしい混雑が始まろうとしていた。
 江戸時代は、このお不動さんより隣の富岡八幡への参拝者の方が多かったようである。いまでも お祭りの時は大変な人を集めるそうだ。
 「深川」といえば、池波正太郎、山本周五郎、藤沢周平、宮部みゆき等の作家が思い出される。江戸時代の 深川を舞台とした作品が大変多い。もともと門前町であり、門前町であることは遊びの出来る街 で、ここも江戸時代有数の岡場所の一つであった。(岡場所とは、江戸時代の幕府が公認しない 娼家の集まっているところ。)日本人は不思議な種族で、参詣して身も心も清くなるとすぐ遊ぶ 癖があるようで、日本全国大体、寺町は遊郭を供えている。
寒行の太鼓の一打空青し (2003,12)  と言うわけで、作家にとって深川は物語を発展させやすいのかも知れない。今日の私は女性のかたがたを引き連れて の深川散歩なので、江戸時代であれば絵にもならない変な野郎と言うことになったかも知れない。
   右の写真は所謂「寒行」の風景ではない。がこの階段の奥には水垢離場もあり、荒修行をされた 高僧のお出ましに会い、太鼓の音と相まって脳裏を掠めた一句である。
 この後富岡八幡を横目に見つつ、ちょいと先を急ぐこととした。
 先日東京国立博物館で「大徳寺聚光院の襖絵展」と同時開催で「伊能忠敬と日本図展」が催され ていたが、その伊能忠敬の住居跡もこの近くにあるそうだ。ここも、雲光院の「阿茶の局の墓」も 「深川江戸資料館」も飛ばすことにした。
 そして、名物の深川飯だけはゆっくり食べるべく深川らしい店を選んで入った。「深川飯」は 単にアサリの炊き込みご飯であり美味しい物ではない。「深川丼」はアサリのみそ汁をご飯に ぶっかけた物だそうでこれまた大した物ではなさそうである。ただ十分な量と食べ放題で 出してくれたお新香は大変美味しかった。
蛙鳴く池畔のここに芭蕉句碑 (2001,05)  早めに入ったため二階に通され、誰もいないのを良いことに句会をやろうと言うことになり、 三句提出三句選を急拠行った。
 「深川江戸資料館」の前でちょんまげを被ったおっさんが皿を回して、お土産屋の呼び込みをやっていた。 女性連中全員が引っかかり、お土産を買っていたが、さすが、我が句友は買い物をするだけでなく見事な句をものしていた。

 路地小春佃煮屋皿廻しをり       みすず
 
 客寄せに皿廻すひと街師走       れいこ


清澄庭園

 俳句を始めてからこの庭園に来たのは2001年5月が初めてであった。上下の3枚はその時の 初夏の画である。清澄庭園も一年中吟行の楽しめる都内の公園である。
風光る飛び石のごと磯渡り (2001,05) 白壁に揺るる波紋の影涼し (2001,05)

 「古池やかはづ飛び込む水の音」の句碑は、元々は芭蕉が住んでいた場所に弟子が建てたものだそうで、 「古池」の句碑では一番古いのではないかと思う。詳しいことは句碑の横の由来に書いてある。
 左上の写真のような大きな名石がいたるところにある。また、右上の写真は「涼亭」と言われ、池に張り出した釣殿 である。
落つる日に雪吊の秀(ほ)の尖りけり (2003,12)  この清澄庭園は江戸時代の豪商、紀伊国屋文左衛門の屋敷跡だそうで、明治時代には、三菱の 岩崎弥太郎が買い取り貴賓を接待する場所として造園を進め、明治時代の代表的な「回遊式林泉庭園」 になったそうだ。
 最近は東京でもよく見るようになった雪吊の景であるが、黄昏色のカーテンをバックに、ここの 雪吊も瞼に残る一景だと思う。
 勤めのある方はなかなか無理とは思うが、ウィークデイの公園は大変静かで吟行にお勧めのところが多い。

園丁の小舟に騒ぐ鴨の陣  光晴(2003,12)

石仏に新しきべべ冬温し (2003,12)  正門の対角線上一番遠いところに、目立たないが石仏が幾つか祭られている。造園以前からあったらしい、 苔のむした物も多い。この前はジュースの缶が供えられていたが、今回は新しい赤い着物を着せられて 微笑んでいた。
 てんでんばらばらに1時間半ほど吟行の後、正門を出て左へと道をとった。


芭蕉庵史蹟

 しばらく歩くと隅田川の堤防に出る。煤逃げ(俳句の季語で、年末の煤払いなどの仕事から逃げる意) のおっさんが数人鯊を釣っていた。
 水上バスが大きな波を作ってやってきた。のどかな大川の風景である。
 堰堤の散歩道はすぐに大川に流れ込む小名木川に遮られる。この川に架かっているのが万年橋 である。
 万年橋は江戸時代、ここから富士山が見えたそうで、広重や北斎が好んで描き、富士山を見る 名所となっていたようだ。現在はどんなに晴れていても人形町、日本橋方面のビルに阻まれ、 見ることは出来ないが。
 この橋を渡ってすぐ左に曲がれば、芭蕉庵の後だという芭蕉稲荷社がある。この写真にあるだけの ものであるが、もう少し上手い句が出来るようにお賽銭を供えてきた。
  蕉翁の像にあまねく冬日射す (2003,12) どんぐりの五六供へて芭蕉堂 (2003,12)

 さらに先に行けば隅田川の堤防であり、堤防の左手が江東区の芭蕉庵史蹟展望庭園となっている。
 芭蕉庵の本当に在った場所が稲荷社の場所であり、当時の芭蕉庵からの眺めに一番似ている場所として展望庭園があるようである。
 そしてこの庭園に芭蕉翁座像があった。不思議なことに12月半ばだと言うのにこおろぎが鳴いて いた。
 ここから2,300メーター森下駅の方に行った先に江東区立芭蕉記念館がある。 当日は月曜日で館内に入る事は出来なかったが小さな芭蕉堂のある庭園は、狭いのに、大変多くの 植物を集めて植え込んであった。
 今回はこの後、句会と忘年会もやろうと欲張りな企画をしていたため、吟行すべき場所を幾つか 素通りしてしまったが、いずれ付け加えて行きたいと考えている。

最終吟行日2003,12,15





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