伊豆韮山(三島)
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反射炉の塔に掛かれり春の雲
蛭ヶ小島
朝10時、三島駅に集合。句会「伊吹嶺」主宰の栗田やすし先生を迎えて静岡、東京の合同吟行会が始まった。
天気にも恵まれ、暑いくらいの日であった。我々は、単線の伊豆箱根鉄道駿豆線に乗り、韮山に向かった。
春の日を窓越しに受け、単線のローカル電車に乗っていると、気分はしだいに子供時代の遠足気分になってくる。
初めて会った静岡句会の仲間ともすぐに親しく話せるようになった。
朝早くに出てゆっくりと歩いて回っているような人々にも会ったが、あとで句会もせねばならぬため、数台のタクシーをチャーターして回ること
となった。
蛭が小島はご承知のように、源頼朝が20年間に渡り流人生活を送った地である。当時は、この辺り、狩野川の中州
であったため、小島の地名があるようだが、現在は畑のまっただ中に小さな公園式に碑が整備されていた。
狩野川は今ずっと西の方を流れている。
陽炎へる鉄路に電車現るる 光晴
江川邸
江川邸は旧代官屋敷である。蔵にはまだ人目に触れたことのない資料が沢山有るとのことで、
この日も学者連中が集まっているとの話であった。
明治初期には、県庁でもあったそうで庭も広い。屋根は現在銅板葺きとなっているが、茅葺きで高さは12メートル
もある。
1261年には、日蓮聖人が泊まり、お礼に棟札を授かったそうで、その御利益により700年以上も火事に
あっていないそうである。
土間の竈なども大きく、大勢の人々が出入りしていたことが察せられた。
私にとって土間の竈は、小田原にあった母の実家の記憶に結びつくものであり、子供の頃の諸々が思い出された。
36代江川太郎左衛門英龍(1801〜1855)は、幕末の時代の代官であったが、博学の行動人であった。
東京湾にお台場を作ることを提案し、銃砲鋳造向けの溶鉱炉である、反射炉の建設などをした。(トップの写真)
その他、兵糧としてパンを作らせ、全国に普及する基となり、パン祖とも言われ庭に碑ができていた。
左の写真は、江川家の裏門である。多くの凹んだ後は1590年秀吉の小田原攻めの際の銃丸や矢尻の跡だそうである。
実朝は直接の関係はない。忌日が1月27日で訪れた日に近く、頼朝や北条氏との関係の中で、その時江川家の選択は
どうだったか、ふと頭を過ぎった季語である。
きささげの枯木根を張る江川邸 光晴
韮山反射炉、政子産湯の井、願成就院
ここの反射炉は、安政元年(1854)に起工、同年南炉完成の後英龍の死を挟んで、三男の手で安政4年11月に
完成したそうだ。現在では完全な形で残っている反射炉は、ここ以外世界にないそうである。
流ちょうな説明をするお姉さんの後を追って話を聞いていたら、ちゃんとお茶のお土産屋の中にまで案内され、サービス
のお茶で美味しく感じられて、結局お土産はここのお茶とお茶羊羹と決定した。
韮山吟行の最後は願成就院とその近くの北条政子産湯の井戸であった。
願成就院は、北条時政が頼朝の奥州攻めの際に戦勝を祈願して建立した寺だそうだ。堂内には重要文化財も保存されて
いるようだが、首洗いの池とか、左の写真の涸山水とか、北条氏没落の寂しさを感じる寺であった。
この寺の近くに政子産湯の井戸があった。
岡崎では、家康の産湯の井戸を見、今回は政子産湯の井戸を見たが、どうもあまり俳句的な心の動きを持つことが
出来ずに残念であった。同行の句友の一人は、偶然この写真にも写っている、龍の玉(井戸の右端にある青い実)を上手く使って句を拾っていた。
我々は韮山駅から三島まで戻り、主宰が当地に滞在の折、よく使った料理屋で句会を開いた。
句会も主宰を交え二句会合同で楽しいもので有ったが、ここの刺身とうなぎは逸品であった。
句会では三句提出、三句選であったが、披講が進んでも我が名は一向に現れずダメかと思ったが、最後に主宰に一句採って
貰ってほっとした。
輝きて富士の稜線春めきぬ 光晴
柿田川湧水
句会終了後、時間の余裕のある仲間と柿田川に寄った。
渓はすでに暮色深く、湧水の全貌を見ることは出来なかったが、国道1号線の真下から砂を持ち上げて吹き出す
水の勢いには圧倒された。
パールピンクの富士山も垣間見て、足を伸ばした甲斐があったと感謝した。もう少し暖かくなったら再訪せねばと
も思う。
下の写真は、露光不足であったので少し輪郭を強調したら荒れた画像になってしまったのは残念であった。
湧水の芹傾けてたうたうと 光晴
夕富士や湧水に聞く春の音 光晴
伊吹嶺5月号「伊吹集」収載句。
耕や富士の湧水たばしれる 光晴
伊吹嶺5月号「伊吹集」収載句。
最終吟行日2004,01,31
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