洗足池と池上本門寺
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緑陰に並んでをりぬスワン舟
洗足池
洗足池は五反田と蒲田を結ぶ東急池上線の中程にある池である。40才の頃私はこの沿線の御嶽山駅の近くに 住んでいたことがある。したがって何度か足を運んだことのある場所であったが、歴史的な縁は全く知ろうともしなかった。
そんなわけで知り得た情報を簡単に記してみた。
洗足池は周囲1,2qの池である。広重の「江戸名所百景」にものっているそうで、灌漑用水として以上に親しまれていた 沼のようである。
元来は千束大沼と呼ばれたらしいが、1282年に日蓮上人が身延山から常陸国に湯治に向かう途中、池上宗仲の館 (今の本門寺)を訪れる際、この沼で手足を洗ったことから「洗足池」と言われるようになったとのことだ。
その時袈裟を掛けたのが右の写真の松だとか。もっともこの「袈裟掛けの松」は3代目だそうで目立つものではない。
ここは御松庵と呼ばれる寺になっている。
日蓮の袈裟掛けの松夏日濃し
「伊吹嶺」2005年9月号伊吹集収載
右回りに五月の風を受けながら歩いて行くと、右手に勝海舟別邸跡の表示板がある。現在は大森六中の敷地の一部 となっているようだが、大戦後まで藁葺きの家があったそうだ。残念なことに焼失したそうである。
海舟は、幕府側の代表として官軍の西郷隆盛に会うため、池上本門寺を訪れる。この時、洗足池池畔の茶屋で休んだとき 、ここの風景を気に入り、後に「洗足軒」と名付けた別邸を建てたのだそうだ。
明治32年没後遺言によりご夫妻でこの池畔に葬られている。
染めいづるこの山かげの紅葉は残す心のにしきとも見よ
と海舟は詠っている。
また海舟は隆盛を非常に愛していたらしく、隆盛の死後、西郷隆盛を偲んで葛飾薬妙寺に詩碑と留魂祠を建てたものであるが、 大正2年に海舟の遺志により当地に移され、仲良く並んで祀られている。
碑の内容は「獄中感あり」で
「朝(あした)に恩遇(おんぐう)を蒙(こうむ)り 夕(ゆうべ)に焚坑(ふんこう)せらる
人生の浮沈 晦明(かいめい)に似たり
縦(ほしいまま)に光を回(めぐ)らさざるも 葵(あおい)は陽(ひ)に向かう
若(も)し運を開くなきも 意は誠を推す
洛陽の知己 皆鬼と為(な)り
南嶼(なんしょ)の俘囚(ふしゅう) 獨(ひと)り生を竊(ぬす)む
生死何ぞ疑わん 天の付與(ふよ)なるを
願わくば魂魄(こんぱく)留めて 皇城(おうじょう)を護らん」
なお「留魂祠」とはこの漢詩に由来している。
椎の木から良い香りの花が引きも切らず降り続いていた。
樹上では小雀(こがら)達が恋の季節を迎えていた。
皇居が当時の面影を残して今あるは、勝海舟と西郷隆盛による江戸城無血開城のお陰なのだ。
敵味方に別れた両雄が、死後仲良く並んで祀られているのは何とも清々しい気分の良い景である。
海舟の墓にこぼるる椎の花
「伊吹嶺」2005年9月号伊吹集収載
西郷を祀る祠や鳥交る
木陰のベンチで一服して池畔を左へと進むと菖蒲田がある。芹と名前がでていたが、これは「狐の牡丹」だ。
狐の・・と名の付く花は多いが大抵有毒な植物だ。季語は春だが田の用水路などに今頃良く咲いている。
黄菖蒲や蒲の群れる八つ橋を渡って行くと弁天を祀った弁天島に出た。
椎の花とは違った香が立ちこめている。白い榊の花が咲いているのだった。
榊咲く弁天島の赤鳥居
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