蘇州・上海・北京
蘇州の運河
虎丘
水上バスは大半が観光者向けのものであろうが、一人二人で乗っている船ともすれ違ったから、タクシー
みたいなものかも知れない。左下の写真の船だが、どれも大体同じ大きさで同じような装飾が施されていた。
乗船場の運河は川幅も広く、水こそ黄色い日本では台風の後みたいな色ではあるが、雄大で対岸は草木も茂り、
釣りを楽しむ古老なども見えすばらしかった。
しばらくすると岸は白い壁に覆われるようになり、要塞の後や貴族の裏庭みたいな場所を通過ししだいに細い露地
みたいな運河に入り込んだ。
運河に渡るちいさな石の橋も、ずいぶん古いものだそうだ。両岸の今でも人の住んでいる家はいつ頃のもので
あろうか?地震がないから建っているようなものばかりで、窓が水平を保っているものはまず無かった。
水はますます濁り、臭いまでしてきたが、そんなとこでものを洗っている娘がいた。石積みの少し凹んでいるところの
上はトイレらしい。その横が炊事場で、家鴨がガーガー鳴いていた。
しばらく、こんなところを遡上して船は虎丘の裏門に着いた。
白壁の続く運河や水の秋
冬菜洗ふ姑娘そつと笑ひけり
「伊吹嶺」2005年2月伊吹集収載
虎丘は春秋時代末期の紀元前5世紀頃、呉王の天差が父の闔閭(コウリョ)を埋葬した場所と伝えられている。
また、闔閭は剣が大変好きだったそうで、剣に纏わる伝説が多い。
左の大きな石は千人石と言い、ここで千人の人が高僧の話を聞いた場所とか、墓造りの人夫千人を切った場所とかの
伝説がある。しばらく登ったところには剣の試し切りの石という大きな石で真ん中が剣の道なのか大きく裂け目の出来た
試剣石と言うのもあった。
また右は剣池と言い、闔閭埋葬の際、愛剣三千本を副葬したと伝えられ、後年の秦の始皇帝などが探させたが判らず、
掘った穴が池となったとのことらしい。
とにかく深い池で、大きな井戸と言った方が似合うように思えた。
下の塔は虎丘の目玉で、雲巌寺塔と言われる。高さ47,5メートル。宋時代の961年の建立である。
そして、この塔は明の時代から傾き初め、現在約15度の傾斜があり、中国版ピサの斜塔と呼ばれているそうだ。
黄落や淵聳え立つ剣池
七層の塔の傾きいわしぐも