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広島(市内)
太田川はこの相生橋で向こうに流れる本川と手前の元安川に分かれる。
宮島から広島に戻った連中は、ホテルに余分な荷物を預けて釜飯割烹の酔心本店に向かった。
この本通り界隈、流川、薬研堀と独身時代の夜を毎晩癒してくれた懐かしき場所である。白髪を振りかざして
闊歩したい誘惑にも駆られたが、本日の仲間は俳句の連中だ。美味しい料理を味わいつつも、早句会の準備を始めた。
宮島吟行の5句を各人が提出して、仲間の採点を受けるのだ。私も写真につけた句から5句を提出した。みなさんの
目のつけどころ、当を得た措辞や季語の斡旋にうなるばかりであった。その後ホテルに帰ってからも日付の変わるまで
同人の教えを受けつつ句会を楽しんだ。
平和記念公園
翌朝は9時半から平和公園での吟行となった。広島在任中に何度か見た資料館は重すぎて見る気になれず、
公園内にいることにした。
空は話に聞く昭和20年の8月6日のように真っ青で太陽は焼け崩れたドームを照らしていた。しばらく眺めていたが
ドームに来る鳥は、むくどりや雀ばかりで、平和の象徴の鳩は1羽も寄りつこうとしない。平和公園には、木陰にも、日向にも
人間の数以上に見ることの出来る鳩であるのに。
「あそこだけは、平和の象徴である、私ども鳩は寄りつけないのです」とでも考えているかのようであった。
炎昼の原爆ドーム鳩を見ず 光晴
草いきれの向こふに原爆ドーム見ゆ 光晴
夏の日や原爆ドーム大曝 光晴
被爆者の潰えし時計夏さむし 光晴
伊吹嶺9月号「伊吹集」収載句
白シャツや香煙絶えぬ慰霊塔 光晴
などと詠んで見たが牡蠣船「かなわ」での披講は散々であった。一応推敲もしてみたが如何であろうか。
右のモニュメントは原爆投下時間を示す時計と原爆で破壊された瓦礫を敷き、太田川を象徴するのか水を溢れさせて
いる。「広島郵便局員殉職の碑」とあった。
資料館には、その時を示す、被爆された方が持参していた懐中時計もある。
また、下の碑は動員学徒慰霊塔である。
記念公園には、中心に有名な原爆死没者慰霊碑(下の写真)
があるが、沢山の慰霊碑やモニュメント、観音像などがある。後の人々がいくら
慰霊しても亡くなった人々や、ダメージを受けた方々の気持ちが回復するわけはない。原爆許すまじ!核兵器許すまじ!戦争許すまじ!である。
イラクを初めとする世界の紛争を殺し合いすることなく、納める方法はないものだろうか?
一日も早く世界の平和が実現し、二度とこのような悲惨な時代がこないよう誓い合い、祈りたい。
夏草に慰霊碑の白輝けり 光晴
呉線
今回の吟行句会は上記の広島記念公園で終わった。
広島市内にはもう一つ、縮景園と言う名庭園がある。ここにも足を伸ばしたかったが、夜、広島の友人と旧交を
暖める約束もあり、連中と別れもう一泊することとした。
この友も母上を原爆で亡くされている。平和で明るい広島ではあるが、市民の多くは未だに原爆の痛みを体内に宿して
いる方々が多い。残念なことである。美味しい酒、肴をご馳走になりながらも、このような話題もでてしまった。
それでも本人が元気で再会を果たすことが出来本当にうれしかった。
翌日、私は広島時代に結婚生活を始めた府中町の埃宮(えのみや)を訪問してみた。当時埃宮はバスの終点であったが
タクシーの運転手に聞くと、路線ではあるがずっと奥まで走っているとのことであった。それらしき筋に入ってもらうと
なんと、懐かしい家も大屋さんの表札も発見できて感慨ひとしおであった。
そのまま広島駅に車を走らせて、次は呉線の沿線に住む会社の先輩の家を訪ねた。彼も広島時代から、お付き合いを
頂いている方であり、10数年ぶりの再会であった。
呉線沿線の景色も当時とは変わり、海もだいぶ埋め立てられたように思った。それでも渡る川の砂は美しく、島を映す海は
輝いていて、私に残る呉線のイメージに合致し車窓を楽しんだ。
久闊の友と出会い、新しい句友とも出会えたこの旅は実に実りあるものであった。
夏蝶やカメラぶら下げ呉線に 光晴
万緑を抜けて呉線海へ出る 光晴
車窓涼し潮の引きたる浜続く 光晴
広島の街の灯揺るる舟料理 光晴
広島(宮島、広島) 完
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