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明治村(犬山)



機罐車の過ぐる煙や山紅葉

 明治村へ行ってきた。
 一度子供が幼稚園の頃、すでに20年も前になるが訪ねたことがある。
 この時はSLやら市電やら、乗り物に乗るために行ったようで、歴史的建造物もただ上っ面を見て終わってしまった。
 もちろん、俳句のハの字も知らぬときである。
 名古屋から名鉄特急、バスを乗り継ぎ約1時間。明治村に入園したのは昼時であった。
 入園時に貰ったパンフレットによれば、全てを見ると4時間半と記されている。
 俳句を作りに来た以上、そうそう歩き回ることも出来ない。
 重要文化財コースが1時間半とのことで、このコースを土台にして歩くこととした。
 最初の大井牛肉店は、牛鍋も食べさせるとのことであったが、最初からのんびりも出来ぬと、次の三重県尋常師範学校 蔵持小学校を見学する。
 ペンキ塗りの木造校舎は、私が一時疎開していた小田原の城内小学校を思い起こさせた。
 校舎裏に舞う、ポプラの黄葉が素晴らしい。
 なかの裸電球のぶる下がる宿直室は、古畳と相まって、明治、大正、昭和の代用教員などを経験した文人達の姿が 過ぎる気がした。


   学舎のペンキ剥落枯葉舞ふ
伊吹嶺2006,3月号「伊吹集」収載

   宿直室の擦れし畳や冬ざるる

   教会の径に躑躅の帰り花

   ヨハネ堂の煉瓦の隙に冬の蜂

 赤坂離宮正門哨舎を見て森の小径に歩を進めると、モチツツジの帰り花に出会った。
 紅葉したなかで幾つかの花を咲かしていた。
 聖ヨハネ教会堂はきれいな煉瓦造りの上に木組みの塔が乗っていた。
 変わっているのは1階が幼稚園で2階が教会堂になっていることであった。
 大きなスズメバチが日溜まりの中を飛んでいた。
 ここから、森鴎外・夏目漱石住宅を目指した。
 途中日本庭園の標識を見つけそちらへ行ったが、庭園は大した物ではなかった。しかし、ワカサギ釣りのボートが 浮かぶ入鹿池や周りの紅葉山はなかなかの眺望であった。
写真に見える軌道は園内を走る京都市電のものである。

    全山の紅葉の中や明治村

    疲れ果て漱石庵の日向ぼこ

 森鴎外・夏目漱石住宅は、東京根岸にあった借家で、時を違えて両文豪が住んだ家である。
 近くには、現在子規庵として残る正岡子規の家もあったわけで、当時根岸は文人村であった。
 この家、広さは違うが私が子供の頃住んでいた目黒の家と造りがほとんど同じである。
 明治から昭和初期にかけての借家の定番であったのだろう。
 縁側の日溜まりは、非常に懐かしく句帳片手に日向ぼこをしてしまった。
 偉人坂を下るとカレーパン屋があった。途端に腹の空きを覚え、近くの建造物は素通りで明治村食堂に飛び込んだ。  ここはやはり名古屋名物と味噌カツを頼んだのだが、口に入れて歯が痛いのを思い出した。
 それもあったのだろうが、ここの味噌カツは美味くなかった。
 先ほど見落とした清水医院と油屋であった東松屋住宅を見る。
 この医院、明治30年代、当時まだ鉄道の開通していなかった木曽路中程の宿場町須原に、清水半次郎の医院として建てられたもの。
 この清水医院には島崎藤村の姉園子も入院し、彼女をモデルにした藤村の小説「ある女の生涯」には、蜂谷医院の名で登場しているそうだ。
 この医院も中に入ると子供の頃の記憶を呼び覚ましてくれる。
 既に亡くなった叔母が薬剤師で、中野の町医者に勤めていた。
 何度か遊びに行って、分包秤や大きな薬瓶、その他名前は忘れてしまった道具がみなあった。
 2階は入院室だったのだろが、窓に1匹の蝶が動かなかった。半次郎医師の徳に縋るように。




      薬局の分包秤冬日差す
伊吹嶺2006,3月号「伊吹集」収載

     町医者の窓に動かぬ冬の蝶
 まだ5丁目まである明治村の1、2丁目をざっと見ただけである。
 まずは北の外れ、5丁目に行くこととした。逍遙の小道を使うのが早そうである。
 東松屋住宅見学から、この小道に入った。
 市電が見えたのでこれに乗ろうとしたら、終点でバックしてしまう。
 そこえ汽笛を鳴らしてSLが来た。ここが、SL名古屋駅であった。すぐに折り返し発車するとのこと。 時間の無駄をすることなく最北端の5丁目に到達することが出来た。
 最初の建物は帝国ホテル。ここに移設された玄関ロビーは大正12年、関東大震災の直前に竣工した新館で、有名な ライト氏の設計による。厳密には大正だが、ホテルの開業は明治23年だからの仲間入りだ。
 震災、大戦と、よく生き抜いたものである。仕事でロビー位は使ったことがあるが、ここにあると感慨一入だ。
 ここを出ると金沢監獄中央看守所・監房がすぐそこ。もとはこの看守所を中心に放射状に監房があったのだ。  独房には番号が振られていたが、ホテルとは違い4号室があった。囚人でもここには入りたくなかったのでは。
 この辺り日が傾き始めたためか、綿蟲がたくさん舞っていた。
 隣には前橋監獄雑居房があった。中には入らなかったが、あとで人に聞くと結構面白いようだ。

      豆柿のたわわに熟るる雑居房

     独房の鉄柵窓へ雪蛍
伊吹嶺2006,3月号「伊吹集」収載

     独房に四(し)号の室や冬日差
 川崎銀行本店を見て、大明寺聖パウロ教会堂に廻る。
 一見農家の大きな納屋風の建物である。隠れキリシタンの名残の教会の気がした。
 中にはいると、天井は木造ではあるがきれいなドーム状に作られ、親しみのある堂であった。
 次の聖ザビエル天主堂は、ふんだんにステンドグラスをしようした聖堂で、ヨーロッパの由緒ある聖堂のように荘厳 であった。

      身に入むや農家に紛ふ教会堂

     冬の日を玻璃に留めり天主堂

 呉服座(くれはざ)は吉本新喜劇の公演中、木戸は閉められていた。すぐ横に、小泉八雲避暑の家がある。
 当時は魚屋とのことだが、今は駄菓子屋を営業していた。土間はたいへん薄暗かった。
 その隣が本郷菊坂にあった、啄木ゆかりの喜之床であった。本郷の地は今でも散髪屋が営まれている。
    懐手して呉服座の絵看板

    秋寂ぶや八雲旧居の土間暗し

    喜之床を覗く媼の冬帽子

 この後宇治山田郵便局を見学、近くに村内バスの停留所があった。時刻表を見ると終バスの一本前、満員の場合は 通過とある。5分ほどで来るので、これを外す訳にはいかないとバスを待つこととした。
 バスは一日乗車券分を取られたが致し方なかった。
 急ぎ足の明治村ではあったが、紅葉も素晴らしく、楽しい1日を過ごして名古屋へと引き上げた。
最後になったが、我が伊吹嶺句会の同人の明治村での句が紹介されていた。
 我が拙句と並べるのは気の引けることであるが、この2句を紹介してこの項を終えることとする。
 最初の句は、平成16年度犬山観光俳句年間優秀賞のもの。2句目は平成17年10月の入選句である。

飯盒に残る兵の名夏寒し

         軍港の小さき灯台秋つばめ   二村美伽

 



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