旧東海道 品川宿あたり
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品川神社
年も押し詰まったある日、東海道の第一宿である、品川から街道を僅かでも上ってみようと出かけてみた。
品川宿は、最近読んだ「勝海舟」などにも、見送りの人々がここまでは付いてきたり、出迎えたりと江戸の玄関として 賑わったようすが書かれている。
そんなわけで、何か俳句も写真も拾えるのではと期待していたのである。
品川宿の中心、品川本陣跡は京浜急行新馬場駅の近くにある。
幕末の浪士らが良く通った遊郭「土蔵相模」は一つ手前の北品川駅の近くにある。
しかし残念なことに、本陣跡は明治天皇が立ち寄ったという、聖跡公園として一郭が残り、後者に到っては、コンビニと マンションに変わり果て、標識一つを残すのみであった。
旧東海道の街並みも地方の街道筋に残るような情緒はあまり多くを感じさせるものは少なく残念であった。
街並みの電信柱には旧東海道の文字があり、少しでも昔の街道を偲ぶよすがを再構築しようとの努力も少しは感じられ たが、また街道筋にマンション建設の話もあるらしく、反対の幟が木枯らしにあおられていた。
それでも行った証しに若干の写真と句を記したい。
新馬場駅を降りて第一京浜を渡った高台に品川神社がある。
磴の途中を左に上ると立派な富士塚があった。先日下谷の小野照崎神社で富士塚を見たばかりであるが、ここは頂上 まで登ることが出来た。
旧東海道の頃、ここからの眺めは良かったことだろう。真下は品川宿、すぐそばまで海も来ていたと思われる。
今では高層ビルに阻まれて少しの海も見ることは出来なかったが。
空つ風ビルの間より富士塚へ
木枯に舞殿の紙垂抗へり
煤払ふ末社の巫女や尾長鳴く
富士塚の松に木枯容赦なし
品川神社は文治3年(1187)に源頼朝が海上交通の安全と、祈願成就の守護神として建立したもので、品川宿の 北の天王として、後に紹介する南の天王である荏原神社と共に信仰を集めて今日に至っている。
寒い空っ風の日であったが、懸命に年用意の最中であった。そして本殿の裏には、なぜか板垣退助の墓が山茶花の木立 の中にあった。
もいろん、「板垣死すとも自由は死せず」の碑もある。これは佐藤栄作の揮毫であるが、「私の吟行地」の町田 薬師池公園にも自由民権運動の碑としてあった記憶がある。
退助の墓に山茶花こぼれつぐ
本陣の跡とや草は枯れゐたり
ガラス戸に畳と大書冬ぬくし
あかき灯や産土神の年用意
荏原神社と旧街道
新馬場駅に戻り商店街を50メーターほど進めば旧東海道に出る。
さびれた商店街であるが、一応商店が延々と続いている。
昔は港であったろう目黒川の畔に、南の大王、荏原神社がある。
和銅二年(709)からの神社だそうで、境内はそう広いとも思えないが何か厳かな気分になる神社であった。ここも きれいに年用意が施されていた。
6月に行われる、かっぱ祭は大変勇壮で面白いとのことである。
目黒川を渡り旧東海道をさらに西下する。
品川寺ほか
まだ若木ではあるが、神奈川から贈呈された松や路地、昔の医院風の建物や畳屋など往時を偲ばせるものも若干目に付く。
そうこうするうちに街道右手に大きな地蔵が見えて来る。品川寺(ほんせんじ)である。
品川寺は造りが一般の寺と少し違った雰囲気であるが、歴史は古く、大同年間(806〜810年)に空海によって開山 された。
大梵鐘の他、大小の梵鐘が沢山ある。さらに樹齢300年の大公孫樹も沢山の実を降らせていた。
入口の青銅製の地蔵は、
江戸地蔵の一番地蔵尊で深川霊巌寺の地蔵
と 並ぶものである。
すぐそばが、京急青物横丁駅である。第一京浜沿いに西下すると、海晏寺(かいあんじ)がある。
曹洞宗の大きな寺院で、墓地も大変広い。
俳人白井鳥酔、加舎白雄や岩倉具視の墓などがあるとのことだが、案内板などがしっかりしていない。
海晏寺の隣りに泊船寺がある。
ここは芭蕉が、泊まったとされる寺で芭蕉堂や寄木造りの芭蕉像などがあるとのことで期待して寄ったのであるが、僅かに 句碑があるだけ、インターホンで寺に聞いてみたら、公開していませんと、けんもほろろの返答であった。
ここから仙台坂を登ると10分ほどで大井町に出る。
後半は期待はずれのうえ、空っ風はしだいに酷く吹き、本年最後の吟行を終えたのであった。
翁寄りし寺は碑のみや時雨雲
了
吟行日2005,12,22
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