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湖西(大津)



秋雨や黒く小振りの浮御堂

   前日の彦根とはうって変わって、秋の時雨日となってしまった。
 2時からは大津プリンスホテルで俳句結社「伊吹嶺」の全国大会が開かれる。
 いずれまた再訪の機会もあるだろう。古来より多くの俳人に詠まれた、湖西を先ずは歩いてみたいと少々急ぎ足では あったが何カ所か回った。
 まず琵琶湖大橋で湖を横断、浮御堂に寄った。

浮御堂

 浮御堂は堅田の落雁として、また芭蕉や多くの俳人が佳句をものしたところとして、私も知ってはいた。しかし、 来たことがなかったので今回うれしく思った。
 本日は見ることが出来なかったが、伊吹山や比良、比叡など季節ごとに見てみたいものだ。
 細い道の突き当たりに、浮御堂はあった。松の木が目立つ境内の湖に小さく黒い影となって、それはあった。
 堂の下の湖はアオコが繁茂していた。琵琶湖の汚れをこんなところで実感してしまった。

   秋雨や藍藻の寄せし浮御堂

   浮御堂の影あるのみや霧時雨

 

三井寺

 161号線を南下、「三井の晩鐘」で有名な三井寺に着いた。
 三井寺は、天台宗総本山園城寺のことである。この仁王門始め、重要文化財の宝庫のお寺である。
 広い寺領の中に末寺や堂が木の間隠れに現れた。いろいろなところをカメラに収めたがほんの一部を載せて置く。
 写真の中央の白くぼけているのは、雨滴である。
 雨の中、紅葉した桜が散っていた。

   散り急ぐ桜もみじよ仁王門
 この鐘楼が「三井の晩鐘」である。NHKの行く年来る年で良く聞く鐘である。
 前項の彦根城の時報鍾同様、日本の音風景100選の一つである。
 この鐘、一撞き300円で打つことが出来る。現地で音を聞いてみたく、突いてみた。撞木は予想以上に 軽くて打ちやすかった。
 鐘楼の中で聞くと余韻がいつまでも伸びて行き、確かにすばらしい音色であった。


   三井寺の鐘一つ撞くそぞろ寒
 この鐘は、弁慶の引き摺り鐘と言う。
 奈良時代の作とされるもので、延暦寺との争いの時、弁慶が奪って比叡山まで引きずり上げたそうである。
 そして鐘を撞くと、「イノーイノー」と響く。関西では、帰りたいとの意味だそうだ。
 弁慶は、それを聞いて、鐘を谷に投げ捨てたとの伝えがあるそうだ。
 その証拠に引きずり痕と割れ目が付いている。
 でも、ずっと寺にあったなら、あの傷は何で出来たものなのだろう。考えれば不思議だ。
 三井の晩鐘は、この梵鐘をモデルに造られているらしい。

   秋意かな弁慶引きし鐘の傷

   闇に聞く三井の湧水秋思かな

   豊臣秀吉の北の政所によって、1599年(慶長4)に再建された、国宝の金堂を拝し横手に回ると、閼伽井屋がある。
 天智、天武、持統の三天皇が産湯に用いたという泉が湧くところだ。
 この小屋も1600年に建立されたそうで、正面を左甚五郎の龍が飾っている。この龍にも琵琶湖で暴れたという伝説が ある。もちろん、この小屋も重要文化財である。
 そばに立って格子の中を眺めてもなにも 見えない。ごぼごぼっと時折音だけが聞こえた。
 闇の中にフラッシュを焚いてみたのが、この映像。右の方に幣の結ばれた岩があるようだ。
 音は、この辺から出ていたので、これが湧水口だと思う。
 一切経蔵、三重塔、唐院、観音堂、観月舞台などを見学して次に向かったが、まだ岡倉天心の師である、フェノロサの 墓なども一見したいところであった。

幻住庵

 瀬田の夕照で有名な唐橋の近くから幻住庵に向かった。
 幻住庵は、芭蕉が奥の細道の痕1690年4月から約4ヶ月住んだところである。
 本来あった所からは少し違った場所に建てられているそうだが、駐車場から幻住庵に至る小径など、また途中にある 「とくとくの清水」も往時を偲ばせるものがあり、良い雰囲気であった。
 結構不便な場所にあり、ここまで来るのは俳句好きな人ばかり、瞑想するが如くに句帳片手に数人の人が身じろぎも せずにいた。


   秋雨の音しとどなり幻住庵

石山寺

 石山寺の駐車場に車を入れて、まず昼食を取った。どこを見回しても「しじみ飯」である。
 東京下町、門前仲町あたりの「あさり飯」とあまり変わらないものであった。
 壁に大きな「大津絵」があった。平面的な絵であり、基本的には鬼を描いているらしい。もっとも肉筆の大津絵は、 お土産に買えば何万円もするようだ。
 石山寺は紫式部が源氏物語を書いた場所として知られている。
 紫式部の間を見て、中学生の修学旅行で立ち寄ったのを思い出した。
 この寺も敷地が広く全ては見学の時間はなかったが、寺の名前の由来である、奇岩やちょうど開催されていた、 紫式部展、さらに世界平和祈願の一字写経などして帰ることが出来た。
 近くを流れる瀬田川は、唐橋の下流である。琵琶湖には流れ込む河川は百何十とあるそうだが、 流れ出る川はここ1本。さらに下流は淀川となるそうだ。
 右は天然記念物の硅灰石ごしに見た多宝塔。左は本堂の紫式部の間。金網越しになっているのが、ちょっと悲しい。


秋雨に奇岩寂々石山寺

 秋思濃し式部の筆の般若経
06年「伊吹嶺」伊吹集2月号収載

 菊の香や一字写経に筆とりぬ

 新蕎麦や大津絵の鬼七味色

 大津プリンスホテルでの「伊吹嶺」全国大会では以下の一句が入選していた。妻入院時の男厨俳句である。

男厨や一品の夏料理

 妻はお陰様で退院、遊びまくる旦那を暖かく送り出してくれている。
 夜はホテルの我がルームで酒好きの俳人どもが、主宰も交え師弟の関係もなく夜遅くまで俳談?を戦わした。

義仲寺

 義仲寺は、膳所駅からほど近い場所にあった。前日山門の写真だけ撮って、時間ぎりぎりに大会に駆けつけたので、 大会終了後に寄って帰ることとした。
 山門前の道路は、旧東海道だそうだが狭い道である。寺自体も大きくなく目立たぬ存在であった。
 しかし、中にはいると狭い敷地に句碑などが所狭しとあり、見所はある。
 芭蕉が死んだらこの義仲寺に葬って欲しいと遺言したそうだが、現在の寺からは眺望もなにもなく理由がわからないが、 当時は琵琶湖に面した景勝の地であったようである。
 義仲寺は、名前の如く朝日将軍木曽義仲の墓所である。そしてその側室巴御前、前述のように松尾芭蕉も隣り合わせで 墓がたっていた。

 手前が義仲公の墓で、先は巴御前の巴塚である。
 義仲の墓の前には鴨足草(ゆきのした)が密生していた。  この鴨足草を沢木欣一師は、無名庵やさしき花を鴨足草と詠んでおられる。鴨足草は夏の季語であるから、師は 夏にこの地を吟行されたのであろう。
 この日目に付く草木には、串刺しレモンのような、カリンの実や宝石のような実紫が実っていた。
 この写真は「俳句と写真」に貼り付けた。ぜひ、そちらもご覧頂きたい。


   くわりんの実朝日将軍眠る寺
 右隣の芭蕉翁の墓は、自然石で出来ていた。去来の墓ほど小さくはないが大きな墓石でもない。
 去来は正面の形は師弟だけに似せて、師よりは小さくしたのかも。
 面白い形だがと思って見ていたが、足裏の形ではないか、良く歩いた芭蕉なのだからと自分で納得してしまった。
 いっぱいお花が供えてあったが、なかでも野の花紫苑(しおん)が印象的であった。

   蕉翁の墓に紫苑の供花あまた

   秋日向去来も真似し翁の墓


 二泊三日の近江路めぐりであったが、平安王朝から明治前夜までの歴史上の人物の足跡を僅かではあるが訪ねる旅で あった。自分の認識もそれぞれの場所で今回見聞きしたものでずいぶんと認識を新たにすることができた。
 新幹線はほとんど寝たままで新横浜に着いてしまった。
[完]
吟行日 2005,10,14〜15


石山寺から見た瀬田川


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