脇本陣
東海道舞阪宿は江戸から30番目の宿である。明治初年までは往還通りに沿って本陣、問屋場、旅篭などが立ち並び、
多くの旅人が投宿して、その様子を歌に詠み、絵に描いてきた。
舞阪には弁天神社の正岡子規句碑の他、種田山頭火句碑、原田濱人句碑、松島十湖句碑、茅原崋山詩碑、加藤雪膓句碑
などがあり、景観の良い宿場であったようだ。
宿場町の面影をわずかに残しているのが、左の脇本陣である。脇本陣は平常は旅籠屋であるが、参勤交代の時など本陣
だけでは手狭の場合に本陣の代わりを務めた旅籠である。
玄関上の屋根はそのため、格式を持たせた唐破風(からはふ)となっている。うなぎの寝床みたいに奥行きはかなり
ある。廊下も畳敷きで格調の高さが著されていた。
脇本陣の暗き廊下や秋蚊鳴く
岐左神社
11時になったので昼食を摂ることとした。浜名湖畔であるから、やはりうなぎと考えて町の人に聞いてみた。脇本陣
の裏手に「つるや」という老舗があると言う。二段重ねの鰻重は美味しかった。
うなぎやの道を舞阪駅方面に少し上ると、岐左神社があった。
岐左神社には大きな赤石が祀られている。
謂われ書きによれば、大国主命が兄弟との恋争いの謀略で焼けた大石を山の上から落とされ死んだ。母神が天上の大神
に命乞いをして、生き返らせてくれたのが赤貝と蛤の神であったそうな。この二神がこの岐左神社のご神体であり、
落とされた石がこの石とのことであった。
海に関係する神様として漁師町で信仰を集めているそうである。
このあたりは、宿場街の裏通りで落ち着いた住宅街である。庭先には青蜜柑がたわわに実っていた。
神社の横には、舞阪に二つしかない寺院が並んでいる。その一つ宝珠院には、庭に大きな鬼瓦が飾ってあった。句に詠もうと
したが出来なかった。
青蜜柑撓わ東海道の裏
松並木
吟行句を作る約束があるので、栗田主宰を始め多くの仲間とすれ違った。たいていの人が舞阪駅から北雁木に向けて
の道を取っていたのでお会いできて心強く思った。
宝珠院の門口には常夜灯があった。文化六年に大火災があり、町の願いにより文化十年に建立されたそうである。
一里塚、見付石垣を見て行くと国道1号線に出る。
ここから舞阪駅の近くまでに、旧東海道の松並木が残っている。
国道で松並木が途切れる場所に「浪小僧」なる可愛い像が建っている。昔網に掛かってきた海底に住む小僧だったそうで、
命を助けて海に帰してやったお礼に、海が荒れる時には太鼓の音で教えてくれるようになったそうだ。それが海が荒れた
ときの波音だそうだ。天女、大国主命、浪小僧と面白い言い伝えの多い舞阪ではあった。
秋日濃し大火鎮撫の常夜灯
東海道の松並木は、関東では藤沢、大磯、箱根など多く残っている。しかし自分が旅の空のもとにいると思えば、なにか
五十三次を歩いた人の気持ちにもなり、感慨を新たにした。
舞阪駅前は静かな人気もあまり無い駅前であった。ホテルの送迎バスの運転手さんに話したら、やっと静かになりホットしている、
浜名湖花の万博が終わるまでは、大変な混雑であったとのことであった。
大会運営委員のご苦労で、楽しい大会を満喫し、さらには気持ちの良い露天風呂まで楽しませてもらい今回の小旅行を
終えた。
半月を浮かべ浜名湖静もれり
一片の紅葉たゆとう露天の湯
青空と黄葉が屋根や露天風呂
ー完ー
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