大垣(奥の細道むすびの地)
水都いま番ひの鴨の水尾引けり
大垣には、職を持している頃、何度か訪問したことがある。もちろん、その頃は俳句とも縁がなく、出張の旅では
会社周りに明け暮れて、どこへ行っても名所旧跡など回る考えも出来なかった。
今回芭蕉の「奥の細道」むすびの地と言うことで吟行に訪れ、俳句との深い関わりのある地であるとか、美しい
水の都であることを始めて知った次第だ。
さらに遠望する伊吹山は雪を被り実に荒々しい美しさがあり富士山とは違い、森羅万象の神々が宿っていそうで
動的な感じのする山であり古来詩歌に良く詠われているのが十分に頷けた。事実
あまりの素晴らしさに、カメラに収めるのも忘れてしまった。
そんなわけで水の都大垣の写真として撮った、トップ写真の頭に僅かに映っている冠雪の山が貴重な今回の伊吹山の
唯一の写真である。
山茶花や伊吹山(いぶき)に著き雲の影
雪白し雪輝きぬ伊吹山
芭蕉の「奥の細道」がこの大垣で終わっていることも恥ずかしながら、来るに当たって知ったことで、
福祉会館に併設の「奥の細道むすびの地記念館」は大変参考になった。
芭蕉は、この大垣に4度訪れている。1684年は「野ざらし紀行」の旅。1688年は「笈の小文」で江戸から来
、ここから「更科紀行」の旅にでている。1689年には東北、北陸を巡り来た「奥の細道」をこの地でむすび、
桑名から郷里の伊賀上野に向かった。さらに1692年京から江戸に帰る途中に立ち寄っている。
交通の要でもあっただろうが、芭蕉を引きつける人々、谷木因などの俳諧の風が城下町の大垣にあったのだろう。
芭蕉はこの二年後、1694年旅先の大阪で51才の生を終えている。
風凍むや野ざらし紀行の地に立ちぬ
むすびの地、船町港から桑名へと芭蕉が舟で下った水門川の土手には、木で出来た住吉灯台と言われる川灯台や芭蕉を初めとする
多くの句碑が建っている。
時間があれば、大垣駅出て左の岐阜町道標から水門川にそって上り、この船町港跡まで「四季の道」と名づけられた
遊歩道(2.2q)を歩きたいと思ったが、それは次回に期することとした。
住吉灯台は木製であり窓は油紙が貼られているとのこと。
ちょうどこの頃風花が舞ったが、黒い灯台と青い空にはかない雪片は元禄時代の芭蕉の旅(季節は違うが)に
オーバーラップするような幻想を抱かせてくれた。
風花や墨色ふかき川灯台
明日は大雪注意報との大垣は大変寒く、出しておくだけでペンを持つ手は凍えた。そんな中でも冬桜の並木はしっかりと
薄桃色の花を咲かせていた。そしてその寒さにもかかわらず、ボランティアのむすびの地を説明する話し方は熱が入っており
頭の下がる思いであった。
冬桜芭蕉を語る案内人(あないびと)
並びゐる芭蕉の句碑や竜の玉
春遠し鈍色めきて舫ひ舟
拳固して伊吹颪を吾詠ふ
また水門川の土手の植え込みには、俳句の季語となる草花も数多く植栽されていた。季節のものでは、竜の玉、実南天、
寒椿などがあったが、四季折々に楽しめるだろう。とにかく寒い一日ではあったが、上記のような句も拾うことが出来、
先輩句仲間の貴重な話も仕入れて、大垣を後にした。
完
頭へ戻る
徘徊紀行へ戻る
トップページへ戻る