川合玉堂邸と京急富岡
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門潜る玉堂邸の蝉しぐれ
川合玉堂別邸
京急富岡駅を降りて、ほんの少しの坂を上れば玉堂が夏、冬に住まった二松庵がある。
約2000坪の広大な敷地に茅葺きの数寄屋造りの家がある。
腕木門を潜れば、池に注ぐせせらぎを渡り、竹天井の玄関に至る。当時でも風流な造りであったと思われる。
右南方に回れば、客間、画室となり、画室は東南二面に入側があり、採光も十分であった。
この小高い丘の下には富岡の海辺が開けていたそうだが、今では相当奧まで宅地開発されており、四阿の跡に吹く
海風にその名残を留めるのみである。
回遊式庭園の木下闇は、ちょうど蝉時雨の最盛期。藪蚊に刺されながら佇めば、住宅地は消えて青い海と白い砂浜を
眼裏に浮かべることができた。
藪蚊出づ竹天井の暗みより
夾竹桃アトリエ海に真向かへり
蟻地獄一つ短き根太の足
玉堂の庭に玉虫飛び来たる
大正の玻璃戸に淡し晩夏光
玉堂の四阿跡に蝉の穴
富岡八幡と慶珊寺
京急富岡は閑静な住宅地であるが、以前を繙くと綺麗な浜辺であったそうで、孫文が日本に亡命の際、密入国した場所が
ここであったそうだし、海水浴場発祥の地の碑もあった。
そんなわけで、富岡八幡のお祭りも祇園船と言って800年の歴史があるそうだ。神事は夏越の祓であるが、茅の舟を
造って海に流すものだそうだ。
玉堂邸からも当時は素晴らしい別荘の町であったことが伺われるが、文化人も多く棲んだようで、慶珊寺には、先ほどの
孫文上陸の地の碑のほかに、今では直木賞の賞の方が有名であるが、作家直木三十五の「芸術は短し 貧乏は長し」の
文学碑などもあった。
浜であった名残の汐入の池では、親子が岸による小魚を網で追うのどかな風景も残っていた。
風死すや祭終へたる八幡社
結界の苔青々と滴れり
炎天に煙る宮居の焼却炉
炎昼や貧は長しと直木の碑
野牡丹の大樹見つけり午の刻
洲走りの泡立つごとよ船溜り
孫文の揚がりし浜や雲の峰
夏果つや堂に卒塔婆並べ干し
堂涼しゆつくり揺るる鎖樋