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奥の細道、二百五十年忌蕉跡行脚鈔 
               武藤辰男

   
國語部雑誌      昭和十九年五月発行
         第五号  東京都中等教育研究会國語部
  注 本文は現代仮名遣いに変更して読みやすくした。 光リ   閑寂(さび)さびて泰平の世に旅ゆきし
                芭蕉の跡を地圖にしたしむ

     長岡
 宿願であった奥の細道を蕉翁二百五十周年の今年たどることが出来るとは、この厳しい大戦争下に何とも ありがたいことではないかと、極まりなく宏大な、み国ぶりに感謝して上野駅を発った。
 だが、昭和十八年八月五日、私一人でも重点輸送の邪魔になってはならない。この旅は時代を遡ると 同時に芭蕉の杖の跡を逆に探り、又、軍神山本元帥の生家墓所を訪ねて越後路へ出るのも、今なればこそ 意義もあろうと、実は日程ではこうするより仕方はなかったが、上越線によって長い分水嶺を越え新潟県に入り 午後、漸く長岡に着いた。
 雪の長岡、維新史のあるページを埋める越後長岡は、いま又、大東亜戦争によって溌剌とした生産小都市 になろうとしている。私は車屋さんに説明をききながら、眠っておったこの街が、世界に大山本元帥を紹介した、 その頃より現実に覚め甦りつつある情態を諸処に散見し得て心強く感じたのであった。
 元帥の生家は、戦死の公表のあった頃、新聞にも沢山書かれておったように、ささやかな、しかし何となく 懐かしい二階家であって、少年時代の勉強部屋だった三畳だかの窓には、まるで元帥もこうであったかと 思われる少年が机によっていた。
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