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 階下は整理された座敷に仏壇が見え、香煙が薄むらさきに立っている。庭には棗、柿、梅、栗の老木が 数株、むろん昔のままらしく、種々の連想が湧き低回さりがたいものがあった。表札には高野気次郎とあり。 元帥、近親の方のお名であろう。
 私はそこを謙虚な気持ちで辞して直ちに山本家累代のお墓のある長興寺に詣で、近くとのことなので、 東北の西郷と呼ばれた河井継之助の墓石を感慨ふかく栄涼寺にともらった。街は雪の時にトンネルになる 雁木を残しておるので、しばらく降り立ってこの下で胸に涼を入れたが長い一直線のこの通りは、その腕木 の並列が法隆寺で見た虹梁(ママ)の様な蛇腹の様な面白みを感ぜしめられたのであった。
 夕刻、長岡発、越後路を海に沿って出来るだけ遠くの、自分の降りた所は、午後十時村上駅であった。
    越後長岡
  長岡の街に來りて元帥の生家と墓所を時おかず見し
  元帥が育ちし家に虔(つつ)ましく
            その家族(うから)らか今に住みつぐ
  忠良院殿賢道義了居士河合繼之助の墓は蝉しぐれのなか
  大いなる時の流れに生き死にて名は賊軍ともはた官軍とも
                  (短歌研究十月号所載)
 車中で村上の近くには石油を掘るために出来た数丈も噴出しておる湯があると聞いたので第一泊は、その 瀬波温泉と決めたものの、降車客の五六人はたちまち駅前の闇に吸われて四散し、後に残された私はやや 途方に暮れた態になったが、暗い街にお医者を乗せてきた帰り車を漸く探して貰って、走破二十分。瀬波 に着、濤声の枕に近い一室を得た。
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