翌朝は眼下に日本海の広がる海を眺め、引湯に入って気分を新たにし、ペダル踏む人に気をつかいながら
更生車とかいうのに乗って村上駅に至る。中途、噴出泉を仰ぎ見たことはもちろんである。
丘の上に数米(b)を奔騰し櫓にあたり湯柱くづる
村上駅発、車窓に笹川流れの景を賞し、鼠が関駅下車。
念珠ヶ関
「酒田の餘波(なごり)日を重ねて、北陸道の雲に望む。遙々のおもひ駒をいたましめて、加賀の府まで
百三十里と聞く。鼠の関を越ゆれば、越後の地に歩行を改めて、云々」(奥の細道)
私はいま暑熱の街道を辿ってその鼠の関跡に立った。裏日本の海波は羽越線の線路を越えてすぐ崖下に
白波を寄せている。ここは出羽丘陵の迫った所、越より奥に入る三関の一である。芭蕉の奥の旅路もこの
関を越えて新たな発足であった。丁度今頃の事であろう。これより先のくだりに
文月や六日も常の夜には似ず
とある。奇しくも今日は旧七月の六日だ。
私はそんなに広くもない庭にただ一基たつ念珠ヶ関跡の花崗岩柱(みかげいし)の傍に汗を拭った。
ここは単調な何の変哲もないわた埃の街道、漁師町の一本道で名ばかりの水族館というのがあり、山添い
の草むらに新潟、山形の県界標があって、孔雀草がその付近にカット輝くばかりに咲いていた。関跡のある、
その家には老婆が一人いて此處には何代も前から住み着いておるが、関については一向に知らぬとの話、
表札の「地主傳六」という名字が面白い。
私はみちのくに逆行する旅のはじめに降り立った此の地が、近代文化の工作の比較的少ない索然たる
土地柄である為、かえって何か蕉翁の当時を偲ぶのにふさわしい心持ちがされ、此處に自分の旅心さだまりぬ
という感がしつつ再び鼠が関川を渡って駅に帰ってきた。