西行の歌碑は細く枯れ相に一本(ひともと)跡をとどめており
象潟の櫻は浪にうづもれて花の上こぐあまのつり舟
の歌とはおよそかけ離れた若朽の樹となっている。これは縁結びの桜として結び文らしいものが花ならで
白くいっぱいついて、いまも役に立っておる。猿丸太夫、能因法師等芭蕉訪問以前より歌枕に名高く、神功皇后
御着船の場所で千余年前創建の由緒の寺だけに種々の伝説挿話に満ちている。ただ名にこそは聞け、此處まで
来る人は割合に少ないのであろうか。この日訪ねたものは恐らく他にはなかったかもしれぬ。それはさておき
寺宝芭蕉の真跡中の
腰長(こしたけ)や鶴脛ぬれて海涼し
は、所持しておる奥の細道本を対照すると
汐越や鶴はぎぬれて海涼し
とあり。芭蕉翁自身がのちに改めたものと思われる。
これは丁度道連れになった小母さんより、象潟町はもと鹽越村といったということを聞いておったので、
翁が推敲の意を面白く思った。
この象潟のよさは、ねむ塚の句等にも察せられるが何と言っても奥の細道の地の文を通して、よりしみじみと感ぜられる。いま
時代をかえた瞥見ではあるが芭蕉翁が斯くまであこがれたこの地に来てみて「寂しさ悲しみを加えて、地勢
魂をなやますに似たり」が、愈々宜なえるのであった。
象潟より秋田へ。私は車窓に水のない潟と鳥海のやさしい姿を眺めて
きさがたや雨に西施がねぶの花
を再び口ずさんでこの江山水陸の妙なる風光に別れをつげた。