前へ
 境内見晴らしよりは依依たる衣川の流域が見える。案内者の言葉も耳に半分で、私は桜川と言われたその 川や壮麗な都風な街並、竜頭鷁首の船にさんざめいた都人、さては河中にたって敵の矢を受けて主をかばった 義経従士の奮戦の有様等、「一時の叢となる」芭蕉翁と同じ感慨にふけった。月見坂より下山する。
中尊寺の下で汽車に連絡のバスがあったので乗りこんだものの、此處まで来て毛越寺を見残すのは残念な話、 平泉駅に来て時計を見れば三十分ほどのゆとりがある。見当はバスの中でついておったので、私は中学生 のように走り出した。
 朽ちかけた黒い門があって、傍らの立札には史跡毛越寺とある。潜り戸から入るとガラントした砂利の 広場である。門川の小屋には絵はがきが二,三点あったが人はいない。正面と左側に堂が建っておるが 江戸時代のものらしく廃寺の様な感じである。右側は廃墟かさびた林泉が丘山につらなっている。兎に角 私は忙しいのである。ぐるっと左側から問う人もやと早足で覗きまわったが、はたはたと板戸を打って 通り過ぎる涼しげな風ばかり、さらに人気(ひとけ)はない。正面の堂の右前にある寺傳、縁起等を記し た高札を読んで私は貧弱な予備知識を綴り合わせて、慈覚大師の開基、勅願の寺、堂塔四十、禅坊五百余。 金銀珠玉燦として人目を眩し装飾善美を尽くせるその有様を思い見て、付近に残る礎石の配置にその結構 の壮大を復元したのであった。  だが、いまあるものは、この後に出来た二堂と草むらに散在する礎石のみなのである。芭蕉翁の当時も すでにこうであったのであろうか。翁も唐の詩人の言を借りて、げにも
  國破れて山河あり
と、時のうつるまで泪を落としたのであった。
次へ