ふと気がつくと、水のない堀割にも草むして何か白いものが点々とうごいている。じっと見ると羊か、
いや山羊の放し飼いなのである。みちのくの廃墟、毛越寺の境内にこれは又、異国風な情景ではないか、
芭蕉もかかる点景を想像することは出来なかったに相違ない。時である。余すところ十分間。私は門趾の
東端の盛土の上にある二基の句碑
夏草やつはものともか夢の跡 芭蕉
を最大急行で私なりに写生して、又再び駅に走った。この句碑は同じ句が二基で一つは翁自筆のもの、他
は弟子のものと思うのであるが、よく見ることの出来ぬのは惜しいことであった。
光リ注 上の句碑は慈眼庵素鳥が文化三年(1806)に
建立したもので、もう一つは
夏草や兵共か夢の跡 はせを翁
とあり、毛越寺也廖禅師真跡模筆で明和六年
(1769)に確花の建立による。
古くなり見えなくなったため再建立したのでは。
尿前の関
第六日は酔客もない静かな鳴子の湯に泊まった。翌日は暁に起きて尿前の関所跡を訪ねる。日本何景かに
選ばれた鳴子峡の橋を過ぎると谷底のような低い田圃に朝靄をかぶった小部落が見える。これが昔の関の
あった部落であった。私はそこで遊佐某という関守の子孫の家を訪れ、丁度ガダルカナルで戦死された息子
さんの公葬日にあい、清浄な霊前に弔意を表した。江戸時代の当家の有様や、関は田圃にはなっておるが
芭蕉翁の辿った街道あと等を面白く聞かせて頂き、大庄屋だった当家の昔を語る半壊の土蔵を指し示されたので
あった。奥の細道には