崖下にお堂があって鞋か何かが下がっている。人が居るかもしれぬと気がついたので、そばに行ったが
何もない。椽にはアルミ貨が二,三枚にぶく光っている。私はある予感を持って堂内を覗きこんで思わず
ハッと息をのんだ。そこにはまっ赤な顔の坐像が大きな口と眼を見開いて待ち構えている。堂前には姥堂
と、はげかかった漆塗で掲げてあった。私はそれをしおにバタバタ草履の音を立てながら二段三段と石段を
飛んで山を下った。
翌朝、立石寺には予定通り登ったものの、蝉の声は聞き得なかった。これは翁の登った時と時期も違うし
時刻も無理な話であった。しかし芭蕉の句意は心にしみこんでおり、私には蝉の声のあるなしは、もはや
最重要なことではなかった。自然の奥底に自己を浸透させていった翁の心が、もう十分に有難きこととして
私には残った。尤も、その時節に調べるつもりで登ったならば、先年斎藤茂吉先生と阿部先生とだったかの、
ニイニイ蝉か油蝉かの見解や考証等の論には役だったことであろうが。
松島
第八日、立石寺を降りて山寺駅より仙台に出で塩釜に下車。塩釜神社に参拝す。
「國守再興せられて、宮柱ふとしく彩椽きらびやかに、石の階
九仭にかさなり、朝日朱の玉垣を輝かす。かゝる道のはて塵土
の境まで、神霊あらたにましますこそ吾が国の風俗なれと、い
と貴けれ。」(奥の細道)
のごとく、しかも近年修業の功なったので華麗眼もあやかである。老杉雲をつき、暑熱の中を行客参拝の
人多く、奥羽鎮護第一の社たる名を辱めない。かの「文治三年和泉三郎寄進」の灯籠は芭蕉翁当時より時
は経れども、彼の名と物を今にとどめて、全く「佳名今に至りて慕はずといふ事なし」であった。