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千住界隈(東京都荒川区、足立区)
五月川蝦蟇這ふ形にだるま船
小塚原回向院と延命寺
南千住西口を出るとガードに沿って直ぐの処に葵の紋が見える。
鈴ヶ森と並んで獄門、磔などを行った小塚原刑場の跡である。鼠小僧や高橋お伝などの他勤王の志士であった、吉田松陰
や橋本左内の墓もある。左内の墓は福井の左内公園に立派な墓
があるが、当初ここにあり、後に移設が許され脆くなって全く文字も読めなくなった墓石がまた戻されている。お伝に
しても谷中墓地に立派なものがある。
また、ここは杉田玄白達が腑分けを見分して解体新書をものした場所でもある。
延命寺はここに命を落とした二十余万人の菩提を弔ふために大きな首切地蔵が祀られている。この墓地も管理する子孫
も多くはいなくなったようで、申し出がなければ墓地を整理したい旨の掲示が出ていた。
墓地の木戸に吊された舌のない風鈴が一層哀れを感じさせていた。
南風吹く刑場跡や腑分けの地
09伊吹嶺誌10月「伊吹集」収載句
彫り消えし左内の墓や夕立雲
黴生ふる獄門跡の由来書
遠雷や首切地蔵に接ぎの痕
一つとて鳴らぬ風鈴墓所の門
蟻の列投込寺の寄せ墓に
09伊吹嶺誌10月「伊吹集」収載句
素盞雄神社
この神社、平安時代延歴十四年(795年)の建立だそうだ。芭蕉の句碑も文政三年(1820年)だそうで、文字も
読めなくなったため、平成七年に復刻されたものだそうだ。
絵馬を結ぶ大公孫樹も歴史を感じさせる。
揚羽蝶が矢立の句碑の周りをいつまでも飛んでいた。
ここで刑場跡の陰鬱な気分を納めて、千住大橋を渡り、芭蕉が芭蕉庵から舟で
着いた奥の細道出発点の大川縁へと出た。
芭蕉が降り立った辺りには、与謝蕪村の絵が護岸壁を飾っていた。
足立市場で昼食を取り、やっちゃば跡の旧日光街道を歩いた。やっちゃ場は今では寂れた商店街となっていたが、歴史を
残そうと、それぞれの家が当時の名前の大表札を下げて雰囲気を盛り上げていた。
狛犬の踏ん張る脚に苔の花
夏蝶の離れては来る矢立句碑
09伊吹嶺誌10月「伊吹集」収載句
絵馬吊す銀杏大樹や夏闌くる
奥の細道矢立の岸からやっちゃ場通り
峰雲や千住の宿の標石
やつちやばに飛魚の昼餉や矢立の地
09伊吹嶺誌10月「伊吹集」収載句
蕉翁の像に合歓咲く矢立の地
尺蠖や千住に剥げし宿場絵図
今回は北千住に借りた句会場に行くため、墨堤通りを右に曲がってしまったが、旧日光街道をさらに北千住駅を越えた
辺りまで行くと、歴史的建造物などもまだあるようで次回はそちらにも行ってみたいと思った。
裏通りに入ると小さな昔ながらの和菓子屋があった。句会の茶菓に懐かしのスイートポテトなどを求めた。
その奧には氷川神社があり、まだ夏越の祓えの茅の輪があった。半年と3日の穢れを祓い、茅の輪を潜らせてもらった。
三日ほど遅れて潜る茅の輪かな