戦後も紙資源は不足していたようで、活字は小さい。昭和四十四年の短歌生活になって、紙質は少し良く
なっているが、今度はインフレの為か、ページ数は26ページと増えつつはあるが10ポイント程度の活字
で、あまり読みやすい紙面とは言い難い雑誌であった。十分の紙数で読める結社誌を得られる我々は感謝
せねばならないと思った。
遺稿として載せることはしなかったが、評論など見ると、和歌にも正岡子規の影響が色濃く残り、
写生の必要性や観念だけで思わせぶりな詠み方を攻撃したりしている。子規の偉大さを改めて感じた。
又戦後なぜローマ字論者になったのかがよく解らなかったが、戦前の植民地の膨張する中での教育者と
して、異国の人に日本語を教えることの難しさを実感していたからなのだろう。「國語國字問題」の歌を
見て、その源を理解出来た。
さらに父も芭蕉の奥の細道を訪ねていたのだと知り、まだ未踏の月山などには是非行かねばと親しみを
感じた。戦後の歌稿はノートはある程度あるので、掲載の歌ばかりではないと思うが薄れていたり、読めない字
があったりで、改竄しかねないと思い諦めた。
父は八十四歳で昭和六十三年に没したが、今私は平成十二年より俳句を始めている。知らぬ間に同じような
詩詠みになっていた。不思議なものである。
光リ
[完]