鴫立庵の大磯

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  句座開く鴫立つ沢の夏座敷

藤村旧居と墓のある地福寺

ふづくえによしであみたるきりぎりす  七夕の今日、大磯の鴫立庵で吟行句会を開くべく、東海道線に乗った。
 朝9時前なのに、かなり乗っていた人々が平塚駅で降りてしまった。スピーカーは早くも帰りのチケットを求めてから 見物するようにとがなっていた。
 大磯駅は山裾にあり、さらに海岸まで500メートルぐらいだ。若者の待ち合わせグループは、 どうやら海でのバーベキュウらしい。
 私たちを含めて年配者のグループも何組かあり、おそらく東京から初めての田舎風な小さな駅は混み合っていた。
 先ず藤村が晩年を過ごした、藤村旧居に赴いた。
 良く管理されており、藤村の若菜集や緑陰叢書としての小説、破壊など何もない部屋ではあるが頭を過ぎって、藪蚊に 喰われながらも、みな熱心に句帳を開いていた。
うすべりのえんにぎぼしのかぜとおる

   大磯の駅を見下ろし山繁る

   緑陰の真つ直中や藤村邸

   文机に葭で編みたるきりぎりす

くげのなきとうそんのはかつゆのひえ

   椨(たぶのき)の瘤に真白き梅雨菌

   うすべりの縁に擬宝珠の風通る

   藤村の細身の墓や蔦茂る

かびあおきほんじんあとのしるべいし
   供花のなき藤村の墓梅雨の冷
鴫立庵 鍵和田釉子選 年間入選句

   黴青き本陣跡の標石

 庭には大きな椨(たぶのき)や綺麗な牡丹臭木午後3時にならないと花が開かない三時草 などを見ることが出来た。
 藤村の墓は旧居から10分ほどにある、地福寺にあった。静子夫人と並んで実に細い墓石が建っていた。
 梅の木に囲まれていたが、供花はなく、背の石垣には上から蔦が繁りつつあった。

大磯本陣跡と虎御前の延台寺

 国道1号線に出て、平塚方面に向かうと、蕎麦屋の横に小島本陣跡の標石のみが建っている。奥は普通の民家の入口なので 再現も出来ないようだ。 さらに100メーターほど行って、海側に延台寺がある。ここに祀られている虎御前は、この近辺の有力者の娘であった とか、踊り上手の遊女であったとか言われている。曾我兄弟の兄の思い人であったことは間違いがなく、曾我十郎の命を 救ったと伝わる石は、立派な堂の中に安置され錦に包まれていた。虎御石と言う。
 季語虎が雨は、曾我兄弟が討ち取られたのを知った、彼女の悲痛の涙である。
 また、その他の遊女の墓があるのも、宿場であれば当然の話ではあるが涙誘われる墓ではあった。



   虎が雨遊女の墓の欠け茶碗
2007伊吹嶺10月号「伊吹集」収載

   文字薄き遊女の墓へ梅雨の蝶
2007伊吹嶺10月号「伊吹集」収載


鴫立庵

 この鴫立庵は、京都の落柿舎、滋賀義仲寺の無名庵とならび日本三大道場と称されるのだそうだ。
 まったく偶然ではあるが、2002年冬に落柿舎、2005年秋に義仲寺の無名庵、今回ですべて吟行させて頂けた。
 少しは俳句上達に助けとなってくれそうな気がしている。
 今回はこの庵をお借りしての句会であり、蚊に攻められながらではあったが、貴重な経験であった。
 トップ写真が鴫立庵、この右手に左の鴫立つ沢がある。庭には現二十二世庵主鍵和田釉子氏までの歴代の句碑などが並ぶ。
   雀の子歴代庵主の句碑巡る

平塚の七夕

 句会終了後、本日が平塚の七夕祭で幸いなチャンスと考えて、時間の許す連衆と途中下車してみた。
 駅の中から大混乱。流れからはみ出すと、すぐに警備の人に押し返される。  聞きしにまさる大がかりな飾り付けで、飾りの上は大きな竹、太いロープがものすごい。中にはクレーンで吊っているのも あるようであった。  とにかく、拾った俳句を立ち止まって書くこともできず。流れるままに撮った写真から2,3ご紹介してこの項を終える。



   肩車子にせがまれて星祭

   浴衣の娘見世のおもちゃに身動がず






[了]
吟行2007、7、7

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