白山神社の紫陽花祭
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紫陽花を溶かすばかりや雨しとど
文京区白山神社の紫陽花祭
白山神社
この白山神社は、天暦年間(947〜957)に加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目の地に勧請したと伝えられる。後に秀忠の命で
現在の小石川植物園の場所に移り、その後五代将軍に為る前の綱吉の屋敷造営のために、現在の地に移ったそうだ。
金沢時代に息子の七五三で一宮白山神社を詣でているので親しみのある神社であったが、今回初めて吟行した。
ちょうど紫陽花祭の期間であり、富士塚に植え込まれた多くの紫陽花を堪能した。都会のど真ん中だけあって、新品種の花が
多いのにはびっくりした。
紫陽花の油彩光とにはたづみ
富士塚は紫陽花の径雨のみち
狛犬の回りには、特に新しくて珍しい紫陽花が多かった。
隅田の花火の色付きなども初めて見る紫陽花であった。赤の濃い紫陽花も珍しい。
狛犬を囲む紫陽花艶競ふ
渦あぢさゐ水に垂らせしインクとも
境内の一部のような白山公園も紫陽花が植えられて神社に一体化されており、ここが紫陽花祭の会場となっている。雨で会場の
準備が遅れているようで、売店もごたごたしていた。神社の社務所に売っていた紫陽花の水中花が大きくて色も良かったので買って
きたが、普通のコップに入れるのとは違い家に帰って困った。梅酒を作る硝子瓶に入れたが風情も何もあったものでなく、金魚玉
を買ってきたが、それでも頭まで水を入れてぎりぎりだ。水中花は小さな物に限ると反省中だ。
また、ここに孫文の石碑があり、小石川原町の宮崎滔天氏宅に寄寓された折りに白山神社に来て座った石が下にある石との由緒書
があった。頼朝が座ったとか、弁慶が座ったとか種々あるが、外国人の革命家が座った石を顕彰しているのは珍しい。
孫文の石碑を濡らす梅の雨
富士塚の塚より高く青胡桃
11年振りに、白山紫陽花まつりを吟行した。神社と公園は昔のままだが、近所は大きく変り、マンションや東洋大学の校舎が
聳えていた。公園では幼児のあじさい写生会が行われていたが、若いママの方が競い合うようにクレヨンを走らせていた。
親の筆忙しあぢさゐお絵描き会
ハンカチを翳し御朱印受くる列
どの道も紫陽花の道藍の球(まり)
千木光る社の空や濃あぢさゐ
以上二句24年伊吹嶺誌9月号風光集収載句
圓乗寺
白山駅を挟んで反対側に少し歩くと圓乗寺がある。ここはだいぶ以前であるが、白山界隈
でも触れている。
その時の写真でも古い於七の墓は供華に埋没して見えないほど小さい。両脇に後に供養のため作られた墓がある。
今回はこの写真の場所に行く手前の於七地蔵堂である。
龍の髭於七地蔵を囲みけり
石塊が於七の墓や梅雨深む
以上二句13年伊吹嶺誌10月号遠峰集収載句
こんやく閻魔
これより白山通りを数分歩き地下鉄春日駅の手前を右に折れればこんにゃく閻魔に突き当たる。
寺の名前は源覚寺。閻魔堂と塩地蔵堂、毘沙門堂をそれぞれ小さいながら備えている。さらに太平洋戦争中にサイパン島に置かれ、のちに
米国で発見されて寄贈され、送り返された梵鐘もある。
この頃は少し雨も大降りとなり、鎖樋を伝う雨水も溢れ落ちていたが句会場のシビックホールは直ぐそばであり、それほど濡れる
こともなく梅雨時の良い吟行となった。
鎖樋伝ふ青梅雨輝けり
梅雨しとどこんにやく奉る閻魔堂
13年伊吹嶺誌10月号遠峰集収載句
塩は石も溶かすのだろうか?どこか他の塩地蔵も塩でか解らぬが顔の判然としない仏様であった記憶がある。ここのは完全に
首から上は塩が高く積まれているだけのようだ。
我が守り本尊である、毘沙門様をお参りして句会場に向かった。
梅雨暗し塩にとけたる塩地蔵
昼灯す毘沙門堂や五月雨